「ねえ、内田さん。アボリジニアート展、やりましょうよ。そしてアボリジニの画家に日本へ来てもらって、そこで絵画の実演をしてもらうの。絶対にオモシロイ企画だと思うけどね。どう思います?」。

そんな申し出を大阪読売テレビから受けたのが今年の5月であった。何やらその読売テレビが昨年から主催をしているという夏休みの家族向けイベントがあり、これが何と10日間で40万人もの来場者を誇る人気の催しだというではないか。

いやはやそんな大きなイベントで豪州先住民の深遠なる芸術を披露できるだなんて願ってもないことだ。絶好のプロモーションだ。オレ様はやや興奮気味に二つ返事をして、早速展覧会の準備に取り掛かることにした。

準備というのは、もちろん展示をする絵画の選出から始まり、それらを東京から大阪まで搬送する運送業者の手配、また絵画にかける保険や展示会場のイメージ作りなどやることは山ほどあるのだ。

そして何よりも肝心なのがオーストラリアの砂漠のど真ん中に住んでいるアボリジニの女王様たちを一体どうやって日本へ連れてくるか。イベント開催まで正味あと2ヶ月である。

 

これまでオレ様自身、アボリジニの画家を日本へ連れて行ったことは幾度となくある。きっとこの経験を買われて今回も声がかかったのであろうが、すべてがすべて大成功したわけでは決してない。

“日本”という異なる社会・異なる環境・異なる人たちのなかでアボリジニたちが受ける不安やストレスは計り知れないだろう…が、そこは敏腕コーディネーターであるオレ様の腕の見せ所であると自負しながら、朝から晩まで彼らにひたすら密着し、少しでも快適な日本滞在になりますようにと願いながら実に涙ぐましい努力をした。

…にもかかわらず、その甲斐むなしく、わがまま言いたい放題のある女性画家に、この温厚なオレ様がとうとうぶっち切れてしまいましてね。

挙句の果てには公衆の面前で(あれはホテルの朝食会場だったっけ)、大ゲンカをしたら、つい人目もはばからず「うおぉぉぉおおぉおおぉお~~!!!」と嗚咽してしまった苦い夏の思い出。失恋したときだってオレ様あんなふうには泣かなかったのにな。

結局、その画家はイベントを途中でキャンセルし緊急帰国となったのだった。

翌日、現地のローカル新聞に書かれた帰国の理由は「体調不良」。決して敏腕コーディネーターとの「性格の不一致」だったとは明かされず。

さて、そんな経験もあることからやはり来日してもらう画家の人選は慎重に行わなければなるまい。

読売テレビから来日のオファーを5月に受けたオレ様は、その後すぐにメルボルンから砂漠のアボリジニ居住区へ飛んだ。もちろん来日してもらう画家の人選のために。片道ざっと3000kmの道のりであった。

オレ様が赴いたアボリジニの居住区は、アリススプリングスから西へ400kmに位置するマウント・リービックという350人ほどのアボリジニが住んでいる集落なのだが、そこには10人前後の白人が政府管轄の任務を任されて同じように暮らしている。早いものでオレ様がこの居住区を訪ねるようになってまもなく 10年だ。

長い長い時間をかけて培った彼らとの大切な絆である。

一番最寄の街まで400kmもあるその偏狭な土地では、働く人たちの入れ代わりが非常に早く、オレ様も訪れるたびに白人たちの顔ぶれが毎回異なっているのに気付かされる。

短い人は1週間、1年も持てば大したもんだと褒め称えられる。

しかしその居住区で彼らの深遠なる文化を理解しながらアートの啓発に努め、18年もの間アボリジニ居住区で暮らしている稀有なオーストラリア人の女性がいる。

この紙面にも幾度か登場しているグラニスおばちゃんだ。彼女は私にとっての「砂漠のおかあちゃん」。いつも笑顔で豪州大陸と同じぐらいでっかいハートで、すべての人たちを丸ごと包んでくれる救世主。

ちょっとやそっとのことじゃ動じない。砂漠を誰よりも愛し、そこで暮らすアボリジニたちを全身で受け止め守り続ける女神様のような存在だ。オレ様もああなりたい…といつも羨望の眼差しで彼女を見てしまう。

しかしながら順応とは恐ろしいもので、18年も砂漠でアボリジニたちと一緒に居ると彼女の暮らしぶりもすっかり”アボリジニ風”になってしまっている。

「時間」という概念をすっかり忘れて約束をしてしまうところとか、トイレのドアを閉めないで平気で用を足すとか、まぁそんなことなのだが。

アボリジニの画家に日本へ来てもらうには、当然のことながら、彼女の存在抜きには成立しないので、まずはグラニスに相談を促す。

実は2003年にも一度グラニスと女性画家を2名来日させているので話はトントン拍子で進んだのだが、肝心の画家がいまひとつ決まらない。

居住区では40歳代半ばから後半以降のアボリジニになると出生届が定かでない。ということは、パスポート取得がひときわ困難になるではないか。イベント開始まであと2ヶ月しかない。ここは安全策をとって若手の画家で勝負しよう。

そこで名前が挙がったのが「モリーン・ナンパジンパ」と「ノーマ・ケリー」。近年、絵画制作に意欲を燃やしやる気満々の二人である。早速彼女たちに日本行きのアプローチを始めた。

「モリーン、ノーマ。ジャパンヒロウィエフピイタラゴブレイヲニヅ4イエー0ソウロ、パリャ?」。もちろん彼女たちの言語、ルリチャ語でのアプローチである。どうだ。かっこいいだろう。

すぐばれる嘘はここまでにしておきたい。オレ様は簡単な英語で日本行きの主旨を伝えた。「ジャパンはどこだ?」と彼女たちからの最初の質問。そりゃそうだ。

普段、テレビでニュースを観るわけでもなくインターネットで情報を得ることもない、「世界」がどんなものなのかまったく謎めいている二人に、まずは日本の位置を教えてやらねばならないのだ。

そこで敏腕コーディネーター、「ジャパンは海の向こうにある私が生まれた国」と答えたところ二人とも「へ?」ってな顔してオレ様を見ている。そして「海ってなんだ?」と真面目な顔して聞いてくる。

そうか。そうだった。モリーンもノーマも砂漠の民ではないか。彼らは生まれてこのかた一度も海を見たことがないということにオレ様、まったく気付きもしなかった。そこで次の手段。

用意万全のオレ様、今度は世界地図を広げて「ここ。オーストラリア。そしてこっち。ジャパン」と彼らに実際に日豪の位置関係を把握してもらおうと試みたのだが、そのときあんまりオーストラリアと日本との距離が離れていると思われると「そんな遠いところへ自分たちだけでは行きたくない。怖い怖い」と言い出しかねないので、できるだけ近いお隣の国、インドネシアあたりを指差して「ジャパン。このへん。近い。近い。すぐ。すぐ。寝てたらあっという間に到着」。そんなことを言って二人を安心させてみせた。来日してもらうためには嘘もつく。

そして次の質問。「ジャパンにはケンタッキー・フライドチキンはあるのか?」とやはりまずは一番に食べるものの心配をするモリーン。

普段、居住区で暮らすアボリジニの人たちにとっては、たまに街から買ってくるケンタッキーフライドチキンが何よりのご馳走であることをご存知いただきたい。

「ケンタッキー? あーーる。ある。何でもある。ステーキもある。ジャパン、おいしいものいっぱいある」。「じゃあ、牛の脳みそは?」「……。きっとあーるある。多分あーるある。探しておく」。「ところで私達、ジャパンではジャッキー・チェンに逢えるのか?」。

おー! 来たな来たな。この質問は絶対に来るとにらんでいた。

何たって2003年に二人の画家を来日させたときに、偽ジャッキーを友人に頼んで演じさせたのだが《持つべきものは嘘つきの友人である》、それが思いのほか大成功をおさめ、以来マウントリービックでは「ジャパンへ行けばジャッキー・チェンに会える」という伝説が、瞬く間に流れるようになってしまったのだ。

今夜早速大阪の読売テレビに「8月、ジャッキー・チェンのそっくりさん募集」の広告を出してもらうようEメールを打っておこう。

そんなこんなでようやく二人から快諾の返事をもらい、いよいよ日本出発へ向けての本格的な準備開始となった。

未だなんだかよくわかんないけど、日本へ行くことになっちゃったわ…という顔をしている二人だが大丈夫! 後悔はさせないよ。オレ様が付いているからね。安心してね。その言葉を残しながら居住区を後にしてオレ様は後日メルボルンへ戻った。

さぁて。これから「愛と涙の大阪物語」を、次号からたっぷりとご紹介させていただこうではありませんか。笑いあり・涙ありのハチャメチャ珍道中。どうぞお楽しみに!