カテゴリー: 裸足のアーティストに魅せられて

  • 第100回

    皆様、新年明けましておめでとうございます

    …と、オレ様ここぞとばかり、ついでにもひとつ「おめでとう」を言わせていただきたいことがある(胸を張って。そして鼻の穴も大きく広げて)

    なんと、なんと、この新年号で、オレ様の「裸足のアーティストに魅せられて」の連載がめでたく100回!!を迎えるのであるううううううう。

    まあね。それが一体どうした…と言われりゃそれまでであるが、やはりこれまで100回もコツコツと真面目に原稿書いてきたという、オレ様のつつましい努力を、この場をお借りして、ぜひ自分で称えたいと思ってる。

    そこで、時計の針がまだ午後3時を差していない真っ昼間から、冷蔵庫の中の冷たい白ワインを開けて、ひとり祝杯をあげている。金がないので、シャンペンなんて高級モノは我が家の冷蔵庫には存在しない。そして、もちろん手酌だ。手酌する人間は出世しないと、周りの人間から以前、さんざん忠告されたことがあったが、自宅で寂しく、ひとりぼっちで起業しているオレ様は、誰が何と言おうと立派な社長なのだから、これ以上出世なんてする必要はひとつもない。だから、毎日手酌で酒をがぶがぶ呑んでいるのである。

    ところで…100回というと、おおよそ過去何年間ぐらい書き続けてきたのだろうかと、オレ様の複雑な頭で単純計算をしてみた。すると100回÷12ヶ月=8.3年という数字がひとまず出るが …根っからの怠惰なオレ様のことである。8.3年間も、毎月毎月、欠かさず原稿を提出していたわけがない。いつも締め切りギリギリのその日に、慌ててパソコンの前に正座して、一生懸命ネタを考えているぐらいだから、時折「ごめんなさい! カンニンしてください。今月はどうか休ませてください。いててて…あれ。変だな。急に吐き気をもよおしてきた。ひょっとしてつわりかな」と想像妊娠のふりして、編集長様に頭を下げたことだって1度や2度ではないのだから。

    そうなると間違いなく過去通算10年以上は、この「伝言ネット」様とのお付き合いがある計算になるわけだ。これまで実に何人もの人から、 「ドラゴンネットいつも読んでますよ」とか、 「はだかのアーティストに魅せられて、おもしろいですよね」とか、言われ続けてきたオレ様であるが、この際、「竜ネット」でも「素っ裸を見られても」でもなんでいいと思っている。何よりも、この1ヶ月に1度のオレ様コラムを、長いこと楽しみに読み続けてくださっているという方々からの心強い声援が、たまらなく大きな力になっているのだから。どこか見えないところで、オレ様が確実にたくさんの方々と繋がっていると思えることに、ともいえない興奮を覚えるのだから。

    そこで今回、100回目の記念すべき原稿を書くに当たって、それじゃあ第1回目は、一体何を書いていたのだろう…? と、ふと思い、てっきり、それを自分のパソコンに保存しているものと信じ切っていたオレ様は、どこをいくら探しても、その第1回目の原稿が見当たらないことに、さぁ大慌て。きっとまた酔っ払って、うっかり削除してしまったのだろうか。(先日、いくら探しても見つからなかった展覧会の招待状が、数日後、冷蔵庫の野菜室から出てきた事実あり)それとも10年前となると…当時は、オレ様がまだうまくパソコン使えなくて、もしかしたら手書きでファックスで原稿送ってたか??? なんてことも十分に考えられる。恐ろしい。10年前の記憶が、おもしろいように飛んじまっている。

    しかし、今でも鮮明に覚えていることがある。当時、そうそれは10年前のことだ。メルボルンの市内のアボリジニアートギャラリーに、日本人スタッフとして勤務をしていたある日、ちょっと小柄の1人の日本人男性がギャラリーのドアを開けて、ぬぬぬぅぅぅーっと入って来て、オレ様にこう話しかけたのだ。 「あのぉーー。僕、メルボルンで『伝言ネット』という月刊誌を発行している者なんですけどぉーー。もしよければ、アボリジニのことについて、ちょっと原稿を書いてもらえませんかねえ」と、いきなりこうだ。

    「んんんまぁーー! お声をかけていただいて、どうもありがとうございます。でもなぜ私が?」とオレ様、心の中では「このあんにぃ、一体ナニモノだ?」と怪しく思いながらも、いつものインチキ営業スマイルで少し様子を探る。すると、大きな黒いちょっとボロボロになっていたカバンから、そのアンニィが取り出してオレ様に見せてくれたものは、ピンク色したペラッペラの4枚つづりの、これまで見たことがない冊子だった。表紙には変わった字体で「DENGON NET」と書かれていた。

    「…はぁ?」

    オレ様は、その時点でも、いまひとつ状況がつかめず、ちょっと不思議そうな顔をしてみた。もちろん、インチキ営業スマイルは忘れずに。その後、どんないきさつが我々の間に交わされたのか、正直よく覚えちゃいないのだが、結局オレ様は当時、誌面を通して、オーストラリアの先住民が持つ深遠なる文化とその歴史、そして彼等の稀に見るユニークなアートをメルボルン在住の日本人の皆様に、1人でも多くご紹介をしていきたいという、たったそれだけの願いから、この伝言ネットの連載を始めることにしたことは間違いない。

     たかが10年。されど10年。この10年間で、実に様々な変化が訪れた。いまやインターネットというテクノロジーのおかげで、オレ様のこのコラムが、世界中の人々に読んでいただける環境となったのだ。そう。だから今度は、メルボルンだけではなく、世界中の見知らぬ方々から、たくさんのメールをいただく機会に恵まれたのである。

    そして、昨年は、この記事を読んだという日本の出版社から、「本を出してみる気はありませんか?」との申し出を受け、あれよあれよという間に、今度は本を出版するまでに至った。「夢の印税生活。老後はこれで悠々自適さ」の夢もはかなく、どうやらこの本、原稿執筆にあれだけ苦労したにもかかわらず、ちっとも売れていないようだ。今頃は、きっと出版社の倉庫にホコリまみれのまま、山積みされてスヤスヤ眠っていることだろう。そのうち焼却処分になっちまうことだろう。そうならないうちに、さっさと自分で買い取った方がいいのかなあ。ため息ついて貯金の残高を確認するオレ様、これだけは10年前とちっとも変わっちゃいないようだ。

    そもそもオレ様が16年前にオーストラリアへ来なければ… アボリジニアートに出会っていなければ…そうなると当たり前だが、全く違う人生を送っていたはずだ。

    初めてこの広大なオーストラリア大陸に足を踏み入れた 1994年。オレ様は、ボランティアの日本語教師として、当時、人口わずかの小さな小さな村に派遣をされた、たった1人の日本人だった。到着するやいなや、たどたどしい英語の単語を一生懸命並べて、ホストファミリーへ一生懸命に自己紹介をした。すると、「よし、今日は日本からのゲストが来たから、久し振りに夕飯は外食しよう!」とホストパパが気を遣ってくれたのか、そんなことを言ってくれた。年に何度も外食をしない子供達は、もう喜びのあまり、気が狂ったといわんばかりに家中を駆け回っていたのを、今でもはっきりと覚えている。そして、その晩、連れて行ってもらったのが、隣町のマクドナルドだった。

    さすが世界のマクドナルドだ。こんな田舎町にもちゃんとあった…なんて、そんな感動するわけない。何たって、オーストラリアに来て、オレ様が一番最初に口にする夕食なんだぞ。「食べきれないほどのジャンボステーキ」とか、「ガイド本に載っていたフィッシュアンドチップス」とか、一応それなりに想像したいではないか。

    「何でも好きなものをお食べ」と、今にも入れ歯がはずれそうなしゃべり方をするホストパパ。本当は腹ペコだったので、ビックマックを2つほど注文したかったが、当時まだ遠慮という奥ゆかしさというか、恥じらいを持っていたオレ様は、小声で「じゃあ、フィレオ・フィッシュお願いしまちゅ」と、もじもじしながらそう答えた。

    「ほほおーー・オーストラリアに来て、すぐにフィッシュが食べたくなるのか。やはり日本人だなあ。おや? すでにホームシックかい?」と笑った拍子に、今度は本当に入れ歯がはずれそうになったホストパパのあの顔は、オレ様、今でも決して忘れてはいない。

    それにしてもオレ様、どうして記念すべきこの100回目に、こんな昔のことを書いているのだろうか。どうやら手酌の白ワインが随分効いてきたようだ。

    結局何が言いたいかというと、まったくひょんなことから南半球メルボルンに来ることになったことから、自分の人生が180 度ひっくり返り、そこから自分の人生のシナリオを一生懸命書きなぐってきたということだ。シナリオでの主役は、オレ様。しつこいようだが、社長も兼任している。今後も、ますます手酌の機会が増えそうだ。

  • チビッコ天使

    またまたアボリジニ村へ行ってきた。今回はいつもより少し長い滞在となった。これといった娯楽施設があるわけでもないアボリジニ居住区で、オレ様が一体何をして毎日を過ごしているか、皆様、ちょいと、ご興味ありませんかね?

    まあ、そんなもん関係ねーやと言われれば、それまでではありますが、それでも勝手に書き綴らせていただきまする。中年オンナは人の話を聞かなくなるというのは、どうやら本当のようだ。アボリジニ居住区では、いつ誰とどれぐらいの期間滞在するかによって、毎回することが異なるのであるが、今回はたった1人で(最近はほとんどそうであるが)訪問したため、何の制約も責任もなく、やりたいことをやりたいときにやりたいだけ自由にできた、実に快適な毎日だった。

    さて、そんなことは言ってもだ。好きな洋服が買えるショッピングセンターや、とびきりおいしいカクテルを出してくれるお洒落なバーがあるわけでもない、ましてや携帯もインターネットも繋がらない場所でオレ様が「やりたいこと」って一体なんだ?

    たいてい、アボリジニ村滞在中のオレ様は、腕時計をはずしている。別に重要なアポイントがあるわけでもないので、時計の必要性はほぼ皆無だからだ。それどころか、日頃、「時間」に縛られているオレ様には、時計なしの生活は、このうえない解放である。
    アボリジニのおばちゃん達と狩りへ行く時だって、「いつ行こうか?」というオレ様からの問い掛けに、せいぜい「モーニングタァァァイム(午前中)」とか「アフタヌゥゥゥゥゥゥゥゥーン(午後)」の返答が返ってくるだけだ。
    「モーニングタイム」と言われても、それが午前8時なのか11時20分なのかは、誰も問わない。それゆえ、おいていかれちゃぁ、さあ大変! とオレ様、出発は今か今かと、彼等の様子を始終探っている。電信柱の影からじーーーっと、しかも何気なく張り込むオレ様。その姿は、まるで日本の写真週刊誌のカメラマンのようだ。

    そう、だからアボリジニ村では、時間によって自分の行動が制約されることはまずない。
    はじめのうちは、そんな生活に大きな戸惑いを覚えたオレ様だったが、それも段々と慣れてくるもので、慣れてくるどころか、快感にさえなってくるのだから不思議なものだ。そういえば一度、こんなことがあった・・・。
    日本の知人が、どうしてもアボリジニ居住区で、しばらく生活したいというので、一緒に連れていったところ、「さあ、もう12時だからお昼ご飯にしましょう」と言うので、「お腹が空いたんですか?」とオレ様は何気なく聞いてみた。すると「いや、特に。でも我々の職場では、いつも12時がメシ時なんでね・・・」と、だから今日も当然そうしなければならないんですよ、みたいな空気をいっぱいかもし出しながら、その知人は言った。

    ほほぉ~。人間の習慣というのは怖いものである。こうして日常のルーティーンで、無意識に「やらねば」という観念に捉われてしまうんだからね。しかしながら、ここは真っ赤な大地とうっそうたる木々があっちにもこっちにもあって、360度地平線が見事に見渡せる、オーストラリアの砂漠の、ど真ん中なのである。野営便所で用を足すのである。うっかりするとヘビにおしりをがぶりとやられるところなのである!!!
    だからこそ「ここではいつも習慣でやっていることを思い切って全部無視してみませんか。頭で考えるのは、この際やめてみましょうよ。“こころ”と“からだ”がありのまま欲することに従って自然にいきましょう。大丈夫。大丈夫。おもしろいじゃないですか。チャレンジですよ! チャレンジ」と、何だか深層心理カウンセラーになったかのような、オレ様の発言に、友人はやや怪訝そうな顔をしながらも何とか賛同した。

    まぁ、時間の概念も習慣も、このアボリジニ居住区では、これまで自分が抱いていた勝手な「定義」がおもしろいように崩れるのだが、それを自分がいかに楽しめるかどうかが、そこでの滞在充実度を大きく左右するのだと、オレ様は10年以上この居住区に通って痛感している。これ、絶対ほんと。
    だから、アボリジ二居住区では物質的な遊び道具がなくてもこうして「自分の価値観ギャフン度」なんていう、いい加減なテーマを作って、毎日それはそれは楽しく過ごせるのである。

    そもそも価値観というのは、幼少の頃からの自分を取り巻く環境に、とても大きく影響されるとオレ様は思っているが、このアボリジニ居住区で暮らすチビッコ達と一緒に遊んでいると、実に彼等の心が透明だということに気付かされる。とびきり丸くて大きな瞳で、じぃーーっと見つめられると、オレ様はもうメロメロになっちまうのだ。彼等の価値観は、今後どのように培われていくのだろうか。
    「おい。ナカマラ(オレ様のスキンネーム)! おまえ、ジャンプできるか?」と尋ねられれば、「はい。はい。何度でも」と言われるままにピョンピョン跳ね続けるオレ様。それにしてもなぜジャンプなのだろう…? いやここではそんなムズカシイ理由を追求するのは邪道だ。だからオレ様はピョン、ピョンとひたすらジャンプを続行した。

    思い起こせば以前、オレ様はイモムシ狩りの途中、熱射病で干し上がって、熱でしばらく動けなくなり、ウンウンうなされたことがあった。その時、アボリジニ村中の子供達が次々とお見舞いに来てくれて、口々に「ナカマラ、大丈夫か。苦しいか?」、「何か欲しいものはあるか?」、「もうこの村が嫌いか? 帰っちゃうのか?」と言いながら、とても心配してくれた。中には、緑色をしたアリを「これを食べれば良くなる」と、見舞に届けてくれた子もいた。オレ様、今まで赤い色をした蜜アリは食べたことはあったが、緑色のアリはまだ一度も口にしたことがない。どう見ても栄養があるとは思えない。かなり躊躇した。ひとつつまんで(その時点では、まだアリ様は生きていらっしゃった)、とりあえず口元まで持っていってみたが、やっぱりダメだと断念し、オレ様はしばらく死んだフリをした。咄嗟に考え付くことが「死んだフリ」だとは、何と乏しい発想なのだろうと自分でも呆れ返ったが、緑色のアリを食べるよりはまだいいだろうと一生懸命死人になり切った。

    そんなこんなで、アボリジニ村での楽しい過ごし方は、実にたくさんあるということをご理解いただきたい。

    現状に満足を覚えられず、何か新しいものを模索したくて、うずうずしている皆様よ!
    たとえあっちこっちへと遠回りをしてもかまいませぬ。まずは「何か」新しいことをやって、思いっきり「ギャフン」と言ってみようではないか。そうすれば、そこから必ず、新たな発見があるはずだからね。

    何はさておき緑色のアリを食べたことのある方、お便りください。お待ちしております。

  • ひゃ~! ラッキー

    人間の知恵ではどうすることもできないとても不思議なもの…それが「運」だとオレ様はいつも思っている。
    「あなたは強運の持ち主です」と以前ある占い師から言われて、意味もなく有頂天になったことがあったが、それでも自分が「不運」だと思うことも時折ある。

    不運だと思う時なんてのは、ものすごく落ち込むし、この世からもうさっさとおさらばしたいとすら思ったりする。そんな時は、とびきりおいいものをたらふく食べて一時の満足感を覚えるとか、家のローンの残高も省みずにパーーーッとお金を使っちゃうとか、いろいろと方法はあるのだが、それが心から満たされていないと感じる時には、単なる消化不良を覚えるだけである。
    オレ様、そんなときはかえってより一層虚しくなる。
    運が良いとか悪いというのは努力次第、本人の気持ち次第、つまり非常にメンタルな部分に近いものだという人がよくいるが、「運」というのは、オレ様にはそれよりももっと大きなもの、すなわち超常的なものだと思えてならない。

    ひとつの例を挙げよう。

    オレ様の現在の一番の活動内容、いわゆるライフワークなるものは、豪州先住民、アボリジニの人達の稀にみるユニークな芸術の日本における啓発なのだが、そうは言っても、まだまだ認知度の高くないアボリジニアートを、日本ですんなり受け入れてくださる方はそう多くないのが実情だ。つまり啓発にはやたらと時間がかかるということである。

    それでも続けることに意義アリと勝手に独自の哲学を持つオレ様は、これまで一度もギブアップしようと考えたことはなく、それどころか自分自身が益々アボリジニの人達に惹かれていく現実、そして必ずや多くの人達に価値を認めてもらえるといった変な自信すら覚えてきたものだった。

    オレ様は現在1年に2~3度のペースでアボリジニアートの企画展を行っており、今年も6月に10日間ほど東京の「ギャラリー上原」で開催した。
    今年で4年目となったこのアボリジニアート展も、今ではすっかりこのギャラリーでの恒例の展示会となり、1年に1度だけ東京で開催するこの展覧会には、毎年遠方からもはるばると、たくさんのお客様が押し寄せて来る。

    しかしながら、皆様ご存知の通り、昨年からの世界的な経済危機によって「美術品は売れないよ。何たって嗜好品(贅沢品)だからね」と、展覧会の開催前には、周りの友人知人達から随分と警告を受けていた。
    ギャラリーのオーナーですら「内田さん、うちのギャラリーで、今年は絵が全く動いていません。コレクター達がさっぱりギャラリーに足を運ばないんです」とぼやいているほどだった。

    しかしながら、オレ様はどういうわけだか心配はひとつもなかった。それどころか、根拠なき自信のようなものが身体中をみなぎっていたほどだ。

    というのも、企画展開催に向けてメルボルンから日本へ出発する飛行機の座席が、どういうわけだかワンランクアップグレードされた。「ひゃ~!ラッキー」とただ無邪気に喜ぶには大きすぎる、とても快適なフライトとなった。

    そして日本に到着した日は、オレ様の43歳の誕生日の前日だった。せっかくのバースデー。どこかで楽しく過ごせやしないかと以前から気になっていた宿をインターネットで申し込んでいた。そこはとびきり人気のある宿らしく「抽選で10名様限り!」と書かれていたので、実はあまり期待をしていなかったのだが、到着するやいなや「おめでとうございます。当選しました」との電話をもらった。しかも価格は「景気に負けるなキャンペーン!」とやらで、インターネット表示価格を思いっきり無視して、な、なんとたったの¥500だったのである。

    東京都心ではアイスコーヒー1杯も飲めない価格だ。それが1泊¥500でしかも2食付き。
    ここまでツイていると少し怖くもなった。何だかオレ様には今、目に見えない力が宿っているのでは?と思えてならなかったからだ。この先、すべてがバラ色一色のようになる気がはっきりとしたのだから。

    案の定、不況、不況、絶対売れないと言われ続けた今年のアボリジニアート展は、まわりの懸念に大いに反して、すこぶる良好な売り上げであった。連日、ギャラリーはたくさんのお客様で大賑わいだったのだ。
    というのも、ただでさえ元気のない今の世の中。オーストラリアの広大なる大地から生まれたエネルギーいっぱいのアボリジニアートで、たくさんのパワーをもらいたいという人々の願いが、うまく販売に繋がったというわけだ。
    この運気、どうせなら長期の定期で貯金できやしないものかと真剣に考えるが、いかがなものだろうか。

    さてさて。全くの余談で恐縮なのだが、19歳になるオレ様の甥っ子が、今年めでたく「日本相撲協会」に入門し、現在、序二段として懸命に日々の稽古に励んでいる。
    50以上もある部屋から彼は「錦戸部屋」を自分で選んだ。錦戸親方といえば、オレ様の同郷、茨城県水戸市出身。元「水戸泉関」として人気を誇った関取である。その親方が、実は大の絵画ファンだというではないか。何やらご自身が現役を引退された後、真剣にフランスへ絵画留学へ行こうとまで考えられたらしい。

    まだご覧になったことがないというアボリジニアート展へ、ぜひお越しいただきたいと招待状をお送りしたところ…開催2日目、早々に会場へお越しくださった。
    身長190センチの大柄な親方がギャラリーに入って来られるやいなや、その場に居合わせた他のお客様が「わぁ~~っ!」と歓声を上げ、次々に携帯のカメラで親方を撮影し始める。日曜日だったことから家族連れのお客様も多く、ギャラリーは大賑わいであった。
    しかも親方は、新弟子である私の甥っ子までギャラリーにお連れくださったのだった。ああ・・・おばちゃん、大感激。

    何しろ甥っ子が相撲界に入門すると決めて以来、携帯電話は禁止だし、最低1年間は自宅に帰ることも許されず、毎日厳しい稽古と「ちゃんこ当番」だと聞かされていたもんだから、久しぶりに会う甥っ子の姿に、ただ、ただ感激するばかりだったのだ。「少し、痩せたね」と甥っ子にそうっと問い掛けたが、親方の前では、きっと私語も慎まなければならなかったのか、彼はオレ様に深々と一礼するだけだった。思い起こせば、ついこの間までゲームに夢中だった高校生の彼が、今や力士として人生の立派な学習を自ら行っている現実を、大いに評価したいと心からそう思った。

    運の神様へ。
    さっきのオレ様の運の貯金を、ぜひこの甥っ子に分けておくんなさいませ。
    いつの日か彼が横綱の座を射止めた際には、オレ様の老後の面倒もきっと見てくれるはずだから。
    未知なる彼の将来に大いに期待したい。

  • ローズマリー

    今日はアリススプリングスに戻る日だ。久し振りに訪れたマウント・リービック(オーストラリア中央砂漠のアボリジニ居住区。アリススプリングスから西に360km。人口およそ300人。オレ様が10年通っている第2の故郷)はいつもと変わらぬ温かい人達でいっぱいだった。それでも、いつもオレ様をかわいがってくれていた長老達が、他界していなくなったという、どこか異なる空気、ちょっと虚無感に近いものを感じた、今回の滞在であったことは言うまでもない。

    アリススプリングスからマウント・リービックへ訪ねる時に、最近はほとんど1人で行くことが多い。まあ、同乗者がいればもちろん心強いし、運転も代わってもらえるので体力的にも楽チンではあるのだが、時折おしゃべりに夢中になってしまって、道端にひっそりと、奥ゆかしく咲いている野生の花に気付かなかったりしてしまう。それに比べて、1人で、真っ直ぐな道を何時間も運転するのは、確かに孤独感を感じることがあるが、それはそれでまた楽しいものでもあったりするのだ。

    人にはほとんど出会うことのない、乾燥した砂漠の1本道。うっそうと生い茂る木々を眺めながら、どこを見回しても真っ平らで堂々としている大地に、自分の身をふと預けたくなる瞬間。また、世界の大部分が空であることにも気付かされる驚き。自分の好きなCDをガンガンかけて、時速140kmでぶっ飛ばすあの快感は、何とも言えないものだ。おまけに、ニクタラシイ野郎の顔を思い浮かべながら「○○のばーーーか!」とか「△△のデーーーブ!」とか言っちゃったりもするが、これは孤独な独身オンナのストレス解消法だと、どうかお許しいただきたい。

    一度だけパンクで立ち往生したことがあった。
    その時は車の中で一夜を過ごして、真夜中に出没した砂漠の動物達と、仲良く一緒にお茶を飲みながら、世の中の経済状況について談義したりした・・・らきっとおもしろかっただろうに。
    音という音はまるで聞こえない。唯一自分の声だけである。もちろん話相手がいないために、今日1日誰ともしゃべっていないことに気付くオレ様。時々「あーーー」とか「うーーー」とかつぶやいて、自分がちゃんとしゃべっていることを確認したりする。耳に言葉がちゃんと聞こえてきて、妙な安心感を覚えたりするのだ。

    でも、どうして発声をするときに人はいつも「あー、あー」って言うのだろう?(←でも、これってもしかしてオレ様だけか?)「ペー、ペー」とか「ルー、ルー」じゃ駄目なのかしら。そんなどうしようもないことだって、砂漠ではなぜか楽しく思える。

    周りの人からよく、「そんなところで1人ぼっちだなんて。孤独じゃないの? 怖いでしょう?」と聞かれる。もちろん不安はいつもいっぱいだし、このまま明日も明後日も人に会わなければ、そろそろ「遺書」ぐらいは書いておいた方がいいかもしれない、と真剣に考えたりするんだからね。

    さて、今日もアリススプリングスへ1人で戻ることになるのか、と思いながら、出発前の車点検をしていた時、1人の女性がオレ様に近付いてきた。「私を一緒にアリススプリングスへ連れて行って欲しいの」そう言ってきた彼女は、これまであまりマウント・リービックでは見かけない顔で、オレ様も個人的にはあまりよく知らない女性だった。しかし、これもまた何かの縁だろうとオレ様は、彼女のオファーを快諾し、「じゃあ、後で家まで迎えに行くから待ってて」と、自己紹介もしないまま点検を続けた。

    名前も知らない彼女と、アリススプリングスまでのドライブ。順調に運転しても4時間半はかかるだろう。まさか、途中で噛み付かれたりはしないだろうな・・・。多少の不安を抱きながらも、時間になったので、オレ様は彼女を迎えに家へ向かった。

    元々『時間』の概念が、我々とは異なるアボリジニの人達である。通常、オレ様は狩りに行く時には、しつこく何度も時間を確認するが、ことごとくドタキャンされることが多い。なのに、彼女はちゃんと旅支度をして、オレ様が来るのを、自宅の前でしゃがんで待っていてくれたのには少したまげた。彼女はオレ様の姿を見るなり「ちょっと見せたいものがあるから家の中に入って」と言い出す。さては、このまま家に閉じ込めて身ぐるみはがされるんじゃないだろうな・・・。孤独な独身オンナは、ついつい悲観的に物事を考えがちになるので気を付けなければならない。

    恐る恐る入った彼女の家は、家具こそは何もなかったが、わりときれいに掃除がされていて、壁には家族の写真が、あっちにもこっちにもたくさん貼られていた。彼女がオレ様に見せたいと言ってくれていたのは、そのたくさんの写真だったのだ。

    「この人が私の叔父さん。あっちは従兄弟の3番目の子供で、その隣が義理の母の妹の姪っ子なの」と、全員の名前を教えてくれたが、とても覚えられる人数ではない。というよりもオレ様は、彼女の名前さえもまだ聞いちゃいない。

    ローズマリー。彼女の名前だ。顔に似て何とも愛らしいと思った。

    さあ、そろそろ出発しようかと、彼女の荷物を運んであげようと思ったが、その荷物がどこにも見当たらない。これから1週間はアリススプリングスで滞在をするというのに、なんと彼女は手ぶらで出掛けるという。ありゃーっ!! よく見ると靴も履いていないではないか。ちなみに所持金ゼロ。オレ様も、これほど身軽に旅に出たいものだと真剣に思った。

    ローズマリーとのアリススプリングスまでの車中4時間半は、いつになくとても楽しい時間であった。ついさっきまで全く知らなかった人が、今は不思議なくらい「こころ」がつながっていると思えてならない。

    街に到着して、腹が減って死にそうだという彼女と、マクドナルドに入ってジャンボバーガーを一緒に食べた。所持金ゼロのくせに、ポテトのビックサイズも食べたいと言い出すローズマリー。「しょうがねーなー」と言いながら、オレ様はコーラも付けてあげた。もちろん、ダイエットコークをね。アボリジニの人達と一緒にいるオレ様は、いつもとても楽しいと心の底から感じる。彼女達も同じように感じてくれることを願ってやまない。

    ちなみに、ローズマリーは、前日に刑務所から出所したご主人に会いに、アリススプリングスまでやって来たらしい。ご主人の顔を見るやいなや、オレ様がそばにいたので、ちょっと照れくさそうにしながらも、熱く抱擁したローズマリー。ぜひまた会いたい女性の1人である。

  • 伝統と近代化のはざま

    たくさんの懐かしい顔ぶれに再会をし、心が満タンに満たされた久し振りのアボリジニ村訪問。しかしながら、12年前にオレ様が初めて訪れた時の村の環境とは随分異なっているのを、今回の滞在でひしひしと感じた。

    それは、まずオレ様をいつもかわいがって面倒を見てくれていた長老達が、皆他界してしまったというのがひとつの大きな理由だろう。現在出版されている様々な人類学関連の書物に、アボリジニの平均寿命はそれほど長くないということが多々書かれているのだが。いやはや…オレ様が普段出入りしているマウント・リービックというアボリジニの居住区では80歳、90歳クラスのシニア達は何人もいたし、おまけに誰よりも元気に自ら狩りへ出かけていた人達だった。
    オレ様なんて、90歳になる長老の男性から「おい、明日狩りに行かないか。2人きりで」とよくお誘いを受けたもんだった。「何だ、じーさん、まだまだやる気満々じゃないか」といった雰囲気を、彼はいつもかもし出していたもんね。
    とにかく皆元気モリモリなのだ。顔のツヤはピカピカだし、狩りで鍛えた肉体なんて見事なものだった。かなりの筋肉質で非常にかっこ良い。それに比べて、加齢とともに身体中の肉がぶらさがっていく傾向にあるオレ様とは、まるで比較にならない。

    そんな元気だった彼らが、どういうわけだか昨年から次々と亡くなってしまったという連絡を、村の白人コーディネーターから電話で聞かされた。例の90歳の元気じーさんも、突然の心臓発作であっという間に他界してしまったそうだ。オレ様はその信じがたい現実を受け入れるのに、たくさんの時間を要さなければならなかった。
    しかし、1人でメソメソしていても現実は何も変わらない。そう思ったオレ様は、すぐに砂漠への旅の準備を開始して、2日後にはもうアリススプリングスへと向かったのだった。

    長老達のいないアボリジニ村は、どことなく虚無感を覚える。村の運営システム自体は何も変わっちゃいないのだが、どことなく『空気』が違うのだ。これは言葉で説明しろと言われても実に困ってしまう。オレ様が皮膚感覚で感じる独特の空気なのだから。
    長老のアボリジニ達がいなくなった居住区を支えていくのは、必然的に若者世代が中心となる。彼らは西洋文化にとても敏感で、それこそ毎日のように西洋の音楽を聴き(ほとんどがロックンロール)、スーパーででき合いのフライドチキンやミートパイを常食とし、週末になると車をぶっ飛ばして、400km離れるアリススプリングスへ繰り出して行くのだ。
    長老達のように自ら狩りに行くだなんてとんでもない。興味を示す若者はほとんどいない。彼らは自分達を「ニュー・ジェネレーション(新しい世代)」と呼んでいる。きっとこれまでの伝統と近代化のはざまで、戸惑いながらも新しい道を模索しているのだろう、とオレ様は思うが、いかがだろう。

    一度彼らから『日本の歌を歌って欲しい』とせがまれたことがあった。さすがのオレ様も、彼らが生まれて初めて耳にする日本の歌を、この自分が、いざ披露するとなると気合いも高まる。よし、ここは一発オレ様に任せろ。ニッポン代表の責任を見事に果たしてみせようではないか。
    そこで選んだ歌は、ピンクレディーの「UFO」。しかも振り付け入りだ。相棒がいないので独りで最後まで踊り歌った。自分で言うのもおこがましいが、若者達から拍手喝采を浴びたことは言うまでもない。それどころかその後、アボリジニ村のどこを歩いていても、あっちこっちから「ハロー。UFO、あれをまた歌ってくれ」と何度もせがまれて困り果てたほどだ。

    話を元に戻そう。
    思い起こせばオレ様だって、まだ若かりし18歳の時には、「こんな田舎はいやだ」と故郷を逃げ出して、東京へ移り住んだ経験がある。親元から離れた、初めてのひとり暮らしだった。都会で暮らす自由さ気ままさを存分に満喫し、真夜中のネオンがチカチカする街並みに酔いしれていたあの頃。故郷に帰りたいなんて 1度も思うことはなかった。
    オレ様があの時そうであったように、アボリジニの若者達も、いずれみんなこの村を出て行ってしまうのであろうか。

    アボリジニの若者達を巡る環境は決してバラ色ではない。失業率は高いし、ドラッグやアルコール依存症だってかなり深刻だ。長老達の教えをきちんと守って、厳しい通過儀礼を誠実に行うことをつまらないと考える若者達。かといって、白人社会で受け入れられるような教育を真面目に受けて、西洋化したいわけでもどうやらなさそうだ。何をしてよいのかよくわからない…。マウント・リービックの若者達と話をしていると、不確実な未来に対する苛立ちとやりきれなさのようなものを、いつもひしひしと感じるのであった。
    溢れんばかりの自分達のエネルギーを、一体どこへ発散していいのかわからない、というのが現状のようだ。そんな若者達にオレ様が、「さあ、アボリジニの伝統文化をあなた達がしっかり守っていきましょう。近代主義にあまり染まってはいけません」などと軽々しく言えるはずはない。何しろこのオレ様だって、茨城での当時の生活に満足ができずに、どこかへ飛び出したいという欲求が確かにあったのだから。
    そんなオレ様は茨城を出て、現在はオーストラリア先住民、アボリジニの人達の深遠なる文化とその歴史、そして他に例を見ない稀なアートに出合って、人生が大きく変わった。

    アボリジニの村を出て行く若者達は、これから何に出合っていくのだろう。ただ、オレ様が茨城を決して捨てたわけではないように、いやそれどころか最近は望郷の念とも言うべきか、自分のルーツとして非常に心を惹かれるように、彼らも自分達が生まれた大地を捨てて欲しくはない、とオレ様は切実に願っている。

  • オンナゴゴロと秋の空

    久し振りのアボリジニ村訪問であった。

    昨年は、ほぼ丸1年間、日本での展覧会のために、あっちへこっちへと飛び回る毎日だったオレ様。それゆえ、こよなく愛するアボリジニの友人達にも、なかなか会いに行けず、長らくのご無沙汰をしてしまっていたのである。「みんな、元気でいてくれているだろうか」。そんな思いを常に抱きながらも、いやはや、物理的な忙しさで、どうしても砂漠へ突っ走っていく時間が取れなかったのが実情だった。

    さて、行くと決まれば、すぐにでも飛んで行きたくなるオレ様のこと。日本から戻って来て、わずか2日後には、早速アリススプリングスへ出発することに決めた。何も到着早々、そんなに急いで行くことはなかろうに…と周りの友人知人達からは随分呆れられたが、すでにオレ様の頭の中には、久し振りに再会するアボリジニのおばちゃん達との熱い抱擁シーンが、次々と浮かんできてしまう。ああ。オレ様、もうだめ。

    日本から持ち帰ったスーツケースを部屋の片隅に放り投げて、今度はそそくさと砂漠行きの荷造りに精を出す。恋愛も、これぐらい積極的に行動できたら…間違いなく、オレ様はとっくの昔に、かわいい花嫁さんになっていたことだろう。孤独なオンナは、最近、やたらと独り言が多くなる。

    少々肌寒い、気温14度のメルボルンを早朝に旅立ってから、空路で3時間。機内でたまたま隣り合わせになった男性に「アリススプリングスへは旅行かい?」と尋ねられた。「いいえ、家族に会いに行くんです」と、そんなことを口走ったオレ様だった。何やらその男性は、ダーウィンの学会に出席するために、アリススプリングスへは乗り換えのためだけに立ち寄るそうだ。よくよく話をしてみると、彼が医者だと判明。なんだ、お医者さんもエコノミークラスで旅をするのか・・・と、オレ様は全く根拠のない安心感を覚えた。そして、相手がお医者さんだとわかった途端、何だかそのうち、専門的な話をされそうな気配を(勝手に)感じたオレ様は、すぐに寝たフリをしたのだが、いつの間にか本当に寝てしまった。

    どれぐらい眠り込んだだろうか。ふと目が覚めると、隣のお医者さんは、学会の準備のために、電話帳ぐらい分厚いたくさんの書類に目を通していた。専門は気管支系だという。寝起きの悪さでは世界チャンピオンクラスのオレ様に、そのお医者さんは、「お嬢さん。いびきを止める方法を知りたいかい?」といきなり尋ねてきたではないか。寝起き早々なんだ、一体?そんなことよりも、まずは最近、久しく耳にすることのない『お嬢さん』という単語に、オレ様、ビクンと反応したが、すぐさま、「ありゃりゃ。いびきかいちゃってましたかね」と、途端に顔がまっかっか。もしや、口も開けていたのでは? よだれはどうだろう? 慌てて自分の口の周りが濡れていないかどうか、触って確認したが、どうやらそれは大丈夫だったようだ。

    人間、寝ている時こそスキだらけ。そういえば今、突然思い出したが、高校時代に修学旅行で、深い眠りについていたオレ様の閉じたまぶたに、もうひとつマジックで大きく目を描いたニクタラシイ同級生がいたっけな。翌朝、目が覚めて、何も知らずに洗面所へ行って、自分の顔を鏡で見た時のオレ様の驚きようったらなかった。唯一、そのマジックが油性でなかったことに、今更ながら深く感謝したいと思う。

    さて、いびきを止める方法を、お医者さんに真剣に聞き入っているうちに、我々の乗った飛行機は、オーストラリア中央砂漠の玄関口であるアリススプリングスに無事到着。空港を出るやいなや、そこでは灼熱の太陽が、容赦なくギラギラと照らしながら、すかさず「よっ! 砂漠へお帰り」と、まるでオレ様に上機嫌で挨拶をしているようだった。雲ひとつ見えない真っ青な空、そして、それと対比するかのような褐色の大地。気温40度は軽く越えているだろうアリススプリングスで、早速レンタカーの四駆に乗り込み、オレ様は、およそ400キロ先のアボリジニ村へ、時速140キロで突っ走った。それこそ早くみんなに会いたいという一心でね。

    ほぼ1年ぶりとなるマウント・リービックへの訪問。村に到着するやいなや、出発前にしっかりとイメージトレーニングしていた通り、オレ様の姿を見つけたアボリジニのおばあさんや子供達が、次々に駆け寄って抱きついてくる。元来、アボリジニの人々には抱擁するという習慣はないのだが、やはり今では西洋文明の影響もあってだろうか。最近は、彼らの方から「ぎゅう」っと強く抱きしめられることが多くなった。うーーん。この香り。ああ懐かしい。いつもの鉄棒のにおいだ。オレ様の鼻を一気に突き刺すこの感じが、たまらない。彼ら独特のその体臭がこれまた、オレ様に明るく「お帰り」と言ってくれているようだった。

    「ナカマラ(←彼らからもらったオレ様のスキンネーム)、久し振りだなあ。今までどこ行ってたんだ?」
    「モシモシ(←中にはオレ様のことをこう呼ぶ人たちもいる)、子供は何人できた?」
    「ナカマラ、髪が伸びるシャンプー持って来てくれたか?」
    「モシモシ、いつジャパン(日本)へ連れて行ってくれるんだ? 来週ヒマか?」

    …とまぁ、抱擁のあとは、間髪入れずに、まるで機関銃なみの質問攻め。それにしてもだ。洗っただけで髪がみるみる伸びシャンプーなんて、オレ様は聞いたこともないし、たった1年間で子供が何人もできたら、それこそ想像妊娠以外のナニモノでもない。おまけに来週いきなり日本へ連れて行けだって…いくらなんでもカンニンしてほしい。

    …と、そんな会話を楽しみながらも、オレ様は今回一番会いたかった女性の元へと足を運んだ。彼女は若くして病気のために全盲となり、恐らく、このアボリジニ村では、今、一番の年長者であると思われる。目が不自由なだけに、自分の周りの気配は人一倍敏感に感じ取る人だ。

    オレ様、黙ってそうっと彼女に近いてみた。すると、その気配に気付いた彼女は、すぐに「おーー! ナカマラ。ナカマラ。戻ってきたのか。よく来たなあ」そう言って、ひゃっひゃっと笑いながら、オレ様の手を強く握ってきたではないか。目がまだ見えていた頃は、きっと狩りの名人だったに違いないんだろうなと思えるほど、大きくがっしりとした見事な掌だ。ほんの少し前に、久し振りにシャワーを浴びて髪を洗ったという彼女は、オレ様にプラスチックのクシを手渡す。髪をとかして欲しいと言う。身だしなみを気遣う「オンナゴゴロ」は、世界共通なのだとオレ様、納得。そして妙に嬉しくなった。

    サラサラとした彼女の美しい白髪をクシで丁寧にとかしていると、今度はいつの間にか、あっちからこっちから幼い少女達が集まってきて、オレ様のカバンの中を、何やらごそごそやり始めた。最初は、何してんの、アンタ達? と不思議に思っていたものの、何やら前回、オレ様が、自分のカバンの中から化粧ポーチを取り出して、ある一人の女の子に口紅を塗ってあげたことを彼女達が鮮明に覚えていたらしく、「今度はわたしにも。わたしにも」と、じゃんじゃか迫ってきたのである。

    ほほぉ~~~。ここにも世界共通の女性がいたではないか!!!

    どうせなら、大胆で派手な色の方が、彼女達の褐色の肌には似合うだろうとオレ様は、とびきり赤い口紅を、そこに集まってきた女の子達、一人一人全員に塗ってやった。中には自分で鏡を見ながら、これでもかというほど、得意気に塗りたくっている少女の姿もあり、何ともほほえましく思ったものだった。到着してからまだほんのわずか。しかし、こうしてオレ様は、ここでの『自分の存在』を再確認する。

    生憎とまだ、かわいい花嫁さんには、なれてはいないが、“自分が誰かに必要とされている”と感じられることこそが、魂がふか~く満たされる至福のひと時。オレ様は、こんな気持ちにさせてくれるアボリジニの人達に、改めて感謝するのであった。

  • 大地と結婚

    先月号に引き続き、オレ様、今回も読者の皆様から次々に寄せられるあれやこれやの質問に、いくつかお答えしたいと思う。それもいつになく真面目にね!

    数ある質問の中で一番多いのは、どういうわけだか食べ物についてだ。まあ、人間本来の一番の欲求である「食」に関する興味が、ひときわ大きいのは当然かもしれない(ちなみに食欲の次は性欲、そしてその次が名誉欲←これは他人から認められたいという欲求らしい。何となくわかるような気がするオレ様だ…)。
    オーストラリア中央砂漠の、アボリジニ居住区で暮らす人々と、かれこれ10年以上もの付き合いになるオレ様が、彼等の食生活こそ、実にバラエティに富んでいるということを、今回お話しようではないか。

    ご存知の通り、はるか太古、このオーストラリア大陸に西洋人が入植してくるずっとずっとずーと昔から、アボリジニの人々は人類最古のライフスタイルといわれる狩猟採集民として、広大な大地と共生してきた。

    大地との共生って????

    ほほーー。やはりまずここで首をかしげましたかな。諸君。
    “共生”というのは読んで字のごとく。大地と共に生きるということなのでありますぞ。といっても、オレ様だって最初は一体何のことだか、今ひとつピンとこなかったのだ。だって一緒に生きていく対象のモノが人間ではなく、見渡す限りだだっ広い、うっそうと木が生い茂った大地なんだもんね。
    しかし、日々アボリジニの人々とたくさんの時間を共有していくうちに、彼等が大地といかなる関係を築いていっているのかが、オレ様は随分理解できるようになったものだ。

    さて、ここでちょっとばかり、このあたりを具体的に説明させていただこう。

    その共に生きる…であるが…実はこれ、どっかで聞いたことあるセリフじゃありません?
    そう。まだ嫁入りしていないオレ様が、こんなことを例えて言うのもまるで説得力がないと思われるだろうが、今やこんな年にもなっちゃいますと、他人様の結婚式には、これでもかというほど出席をしているわけでありまして、その結婚式で神父様が必ず「汝は健やかなるときも、病めるときも、夫○○と(妻○○と)共に生きることを誓いますか」って新郎新婦にたずねる、アレですよ、アレ。

    つまり、どんな状況下に置かれても共に助け合い、認め合い、お互いを尊重していくっていう大事な誓いを、アボリジニの人達はそれこそ何万年も前から、大地と交わしていることになるのである。そこには両者の上下関係や主従関係などは、全く成立しない。それゆえ、人間が大地を支配したりコントロールするだなんていう発想は、まるでないのが彼等の理念であり、逆に人間そのものの存在だって、自然の一部として捉えられているのだ。
    オレ様、砂漠のアボリジニの人々と一緒に狩りに行くと、必ず彼等が大地の表情を細やかにうかがっているのに気付かされる。目を細めて遠くの山や木々、そして近くに転がっている石ころ一つ一つを、とても注意深く観察しているのだ。それはまるで、大地が以前と変わらぬように、秩序正しく機能しているかを、確認しているようである。
    そして、しばしば彼等は大地に語りかける。「おーい。やってきたぞー。子供達がお腹を空かしているから、食べ物をたくさんおくれよー」と。すると大地はその声を聞き、アボリジニの人達に食料を提供する。そういわれてみればオレ様、彼等と一緒に狩りに出掛けて、これまで何も採れずに帰ってきたということが一度もないなぁ。いつも大量のイモムシや蜜アリを、採れたての瞬間、採れたてのまま、それはそれはおいしそうにいただいているもんなぁ。
    彼等がそれらを食べること、それはただ単に空腹を満たすということだけはなく、大地への感謝と敬意を表す、大事なコミュニケーションの一環でもあるんだということを、オレ様、そばで見ていてそう感じるのだ。
    それは24時間、いつでもコンビニで食事が当たり前に買える利便性の中で暮らす我々現代人が、とっくの昔に忘れてしまった、ものすごく大切なことなのではないだろうか。

    アボリジニの人々が大地の表情を常に確認するように、皆様も結婚式で生涯の幸せを誓い合った愛するパートナーの顔色(ご機嫌)を、毎日忘れずチェックするのは、最重要事項なのである!

    今でこそアボリジニの居住区にはスーパーマーケットがあり、それこそ毎日狩りへ出掛けなくても、彼等は日常、空腹を満たすことができるようになった。
    午前中スーパーでパンや冷凍の肉を買い、午後には4駆をブイブイうならせて、何時間もかけて狩りをする彼等の暮らしぶりは、とても興味深いものである。
    また、よく遊びに訪れる彼等の家の戸棚には、ついさっきまで絶対に生きていただろうと思われる、カンガルーが血だらけで横たわっていたり、その部屋の隅には、胴体がすでに食われてなくなっている牛の頭だけが、まるでアートのオブジェのように置かれていて、おまけにオレ様、その牛と目があっちゃったりするんだから、なおさら興味深い。

    今のご時勢、メールも確かに便利で有効だが、やはり時にはちゃんと顔を見ながら話をしたいものである。お互い、目じりのシワを数えあうのだけはやめようと約束しながらも、久し振りに逢う同級生に、そうっと『白髪染め、何かいいのがあったら教えて』と、こそこそ話をするひとときも又、たまらなく嬉しかったりするものだ。

    スーパーで食料を調達しながらも、狩りで大地に語りかける現代のアボリジニの人達。世界の多くの民族文化がそうであるように、アボリジニ文化も又、世界の宝物である。

    現代人アボリジニの人々から、我々が学ぶべきことは実に多いのだ。

  • アボリジニQ&A

    最近、日本のメディアから、非常に多くの問い合わせをいただくオレ様である。

    特にテレビ番組制作者たちからのアボリジニに関する質問が後を絶たない。まあ、それほど日本におけるオーストラリア先住民の認知度が高まったことは、このうえない喜びであるが、その反面、まだまだ、きちんとしたアボリジニの人々に関する情報が行き届いていないのも事実なのだ。
    いまでこそ便利なEメール。あれやこれやと思い付いたままに、海の向こうの顔も知らない、アボリジニと親交を深めているだろうと思われる怪しい日本人女性(オレ様のことだよ~ん)に、ここぞとばかりに日本から問いたいという気持ちはよくわかる…が、制作者の皆様方よ! せめてメールで問い合わせてくれる前に、もうちぃーーっと、アボリジニのことについてオベンキョウをしてみてくださってはいかがだろうか。

    実は先日も、自分は主にドキュメンタリー番組を制作するディレクターと名乗る男性からメールでの問い合わせが来た。何やらアボリジニ居住区での撮影を希望しているとのこと。よしよし…オレ様でよければ、話はいくらでも聞こうじゃないかと、もらったメールを熟読してみたが、どうもいまひとつ意図がつかめない。というか、内容を読んで、オレ様はかなりおったまげてしまったのだ。

    何しろそのメールには、アボリジニの人々は未だに裸体で生活をし、食事は狩りが主流で、毎日欠かさず儀式を行っているらしいので、そういう原始人のような暮らしぶりをぜひとも撮影したい…と書かれていたではないか。
    オレ様、すかさず返信ボタンを押し、「ディレクター様よ。残念ですが原始人に会いたいのであれば、どうか原始の時代へ行ってくださいませ。いまやオーストラリア先住民アボリジニの人々は、私たちと同じ21世紀を一緒に築いている現代人です。勝手な憶測でアボリジニのイメージを作るのはどうかと思われます」と、先方様の期待にかなり反してしまったことは言うまでもない。ついでに、アボリジニの人々が、街でマクドナルドのハンバーガーを大口開けておいしそうに食べている写真もドカーンと一緒に添付してみた。これってきっと、ディレクター様に強烈な顔面パンチを浴びせてしまったことであろう。

    しかし…オレ様、ここでしばし考える。

    そうか、そうか。普段アボリジニの人々と全く接触がなければ、彼らが一体、毎日どんな暮らしぶりなのか、わかるわけがないはずだ。

    ここでオレ様はいま一度初心に戻って、普段周りの人たちから良く受ける質問にわかる範囲でお答えしてみたいと思った。ただし、前もってお断りしておきたいのは、オレ様が語れる「アボリジニの人々」とは、オーストラリアの中央砂漠の、とある一部の居住区で暮らす言語集団の人たちのことであって、オーストラリア全域のアボリジニの人たちを指しているわけではないということだ。ここ、大事なポイントね。
    だって広大な大陸で、それぞれ異なる地域で暮らす多種多様なアボリジニの人々が、みんな同じ生活をしているわけがないからね。

    ###質問その1 アボリジニの生活

    ####アボリジニ村ではみんな何時に起きて、どんなことをしているのか?

    元々「時間」という概念を持たないアボリジニの人たちですよ。だから何時に何をしなければならないというルールなんていうのは、始めから持ち合わせているわけがないんだねぇ。
    それなのにアボリジニ村で、初めて狩りに行こうと誘われたとき、オレ様ったら、ついうっかり「何時に行く?」と尋ねてしまったのだ。即座に「3時、アフタヌーン」と彼らに言われたので、ふと自分の時計を見てみたら、もうすでに午後5時を廻っていた(笑)ので、あれれ? と思った。

    また、居住区内にある小学校では、登校時間を定めても、毎朝アボリジニの子供たちが来る時間は実に様々。これじゃあ授業になりゃしないと、先生たちはいつもお手上げ。そこでオレ様から提案を出してみた。毎朝9時に、アボリジニ村全体に楽しい音楽を鳴り響かせる。それを子供たちが学校へ行く時間の合図にしたところ、これがドンピシャリ! で、以前よりもかなりの率で、子供たちが教室へ集まってくるようになったと、校長先生大喜び。オレ様、久々のお手柄だった。
    ところがせっかく教室いっぱいに集まった生徒たちだったが、授業中に近所のお父ちゃんらしき人が窓ガラスをゴンゴンと叩くではないか。何やら外から「狩に行くどーー!」と叫んでいる。するとどうだろう。生徒たちはみんな一斉に教室を出て、お父ちゃんと一緒にそそくさと狩りへ出発。教室はたちまち空っぽとなった。
    そう。アボリジニの子供たちにとっては、学校でアルファベットを習うより、お父ちゃんと一緒に狩りへ出掛けて、カンガルーの捕まえ方を学んだ方がずっと有益に思えるのであろう。アボリジニ村での優先順位は、いつも「生き抜くため」の智恵を習得すること、これに尽きるのだ。

    また、アボリジニ村では性別や年代によって、やることはみんな様々。政府のオフィスワークやクリニック内の掃除など、決まった活動をする人たち以外は、大抵地べたに腰を下ろして、みんなで団欒している光景をよく目にする。元々、「仕事」という概念が、我々とは異なるアボリジニの人たちであるゆえ、彼らにとって他愛もないおしゃべり(のようにオレ様には見えるだけかもしれない)が、実は重要な部族間のミーティングだったりするのかもしれない。
    昼間でも寝たければ、彼らはいたるところで寝るし、腹が減れば、2日前に仕留めたカンガルーを、ハエがブンブン飛んでいるまま口にするし、とにかく自分の身体の欲求に、実に素直に従う自然体の人たちであることは間違いない。

    そうそう。ちなみに、オレ様、そのハエブンブンのカンガルー肉を少しだけおすそわけしていただいたことがある。神に誓って言うが、決して自分から食べたいなどと言ったわけではない。いや、むしろ「今はお腹一杯」と、食べたくないときにいつも使う手で、丁重にお断りしたぐらいだ。
    しかし、その時ばかりは、どうしても食べざるをえない状況下となり、その骨付きハエブンブンの肉を口まで持っていったオレ様、これまでかいだことのない異臭で気絶しそうになった。ああ、このまま本当に気絶できればどんなに幸せなことか…、心の底からそう思ったものだった。
    まずはペロリと舌で味見をしてみたところ、瞬時に「これは人間の食いモノではない」と脳みそが判断したようで、ノドチンコの奥がヒクヒクと震え始めた。味見だけではすまされず、肉の一片を少しかじってみたら、それこそビーフジャーキーの腐った味がしたような気がした。オレ様、これまで腐ったビーフジャーキーを食べたことなんてないのだが、生理的にそう感じたわけだから、きっとそうなんだと妙に納得。

    そんなこんなで、最初の質問からは随分はずれてしまったが、とにかく我々とは異なる文化・社会・価値観で暮らしているアボリジニの人たちと、たくさんの時間を共有すればするほど、いかに自分が凝り固まったモノの考え方をしているかと痛感させられる。

    人間、環境に応じて様々な規則があっていいのである。そして、時には思いっきり「ぎゃふん」と言わされる想いを味ってみることも必要ではないかと感じる、今日この頃のオレ様である。

  • プロデューサーは命がけ

    忘れてもらっちゃ困るので、ここでオレ様の仕事を再度お話しようと思う。

    オレ様は自分の名刺に、『アボリジニアートプロデューサー』と明記している。つい1年ほど前までは、『アボリジニアートコーディネーター』と記していたのだが、ある時シンガポール在住の知人に、「プロデューサーのほうが真弓ちゃん、ずっとカッコいいわよ」と言われ、根が単純なオレ様は、直ぐに名刺を「プロデューサー」と印刷し直したというわけだ。単純な人間って、結構お金がかかるものである。

    そう。こうして知人からのアドバイスだけで、いきなりプロデューサーとなっちまったオレ様が、では具体的にどんなことをしているかと申しますとね。オーストラリア先住民アボリジニの画家達が描く絵画を、日本へ向けてプロデュースをするってことなのでありますがぁ…。だから、それが何をどうすることなんだって、もっと知りたいあなた。意外としつこいですね。いいでしょう。じゃあ、更に詳しくお教えしましょう。

    今や1年の3分の1を、オーストラリアの中央砂漠で滞在をしているオレ様は、現地でアボリジニの人々と一緒に狩りをしたり、儀式で1週間野宿をして、乳出し踊りをしたりしてはいるが、本来の居住区滞在の目的は、才能あるアボリジニの画家と彼等が描く斬新でユニークな作品を、くまなく発掘することなのである。

    ただし、いわゆる画商という立場にはなりたくないオレ様ゆえ、街から何百キロも離れた砂漠のアボリジニ居住区へ自らの足で赴き、そこでできる限り画家達と時間を共有して、実際に作品が描かれる現場を、自分のこの目で見極めながら、その中で怖くなるぐらいわくわくする絵画を、1点1点買い付けするのが大事な活動の一つだ。

    ここ数年、世界中のアート収集家達から、目を見張るばかりの注目度を集めているオーストラリアのアボリジニアート。この需要に比例して、作品の価格高騰は、とんでもなくすごくなったが、実際に作品を描く画家達の意識の高揚も、驚く程高まったと思う。

    「アイ、アム、アーティスト。フェイマス。フェイマス」と言いながら、なんとかオレ様に絵を買ってもらおうと、自分の作品を積極的に見せに来る表情は、とても誇らしげだ。

    しかしその中には、「絶対買え。買わんと許さん」と攻撃的な画家もおり、これまで何度か、あっちへこっちへと追い掛け回されたことがあったっけ。どさくさに紛れてエロじじぃに耳までなめられたことだってある。また、滅多にないことだが、数年前には1度ハンマーを思いっきり投げつけられ、命拾いしたことだって記憶に新しい。

    プロデューサーというのは、どうやら逃げ足が速くなければならないようだ。そしてセクハラに耐え忍び、常に命がけの戦いでもある。

    先日、久し振りに砂漠の居住区へ出掛けた。そこは、アリススプリングスから350キロほど離れたユゥエンダムゥという、オレ様が初めて訪れるアボリジニの居住区だった。そこには、一般の人々が事前に予約さえすれば、自由に立ち入りが許可される小さなアートセンターが常設されている。購入も自由にできるので、オレ様も、今回どんな作品に出逢えるものかと期待に大きく胸を弾ませていた。

    到着後、早速担当のスタッフに案内されてアートセンターへ向かうと、そこにはすでに、何百ものキャンバスが床一面に配置されており、部屋の壁にはこれでもかという程、所狭しと絵画が展示されていた。

    そこに足を踏み入れるやいなや、オレ様はもう、直ぐに目がくらくら状態。ああ~! もうだめ。これはまるでおもちゃ屋に連れて行かれた子供の心境。あっちにもこっちにも目移りしちゃって、とにかく欲しいものだらけ。始終、興奮しっぱなしだったのだ。

    結局そこで絵画を物色すること5時間。それでもまだまだ時間が足りない。しかし窓の外はすでに薄暗くなっていた。これから再び街まで、4時間以上の道のりを運転して帰ることを考えなければ、オレ様は間違いなく、そのアートセンターにそのまま居座っていたはずだ。

    案の定、絵画を選んでいる間には、何人かの画家達がアートセンターに入ってきて、「これが自分の作品だ」と言って、その絵画を指差しながら、オレ様に得意気な表情を見せる。またその場の雰囲気次第では、画家がその作品の意味を解説してくれたりと、オレ様にとって非常に意義深い時間が流れるひと時でもあった。

    しばらくすると「オマエ、どっから来たんだ」とある女性に聞かれた。「メルボルン」と言ったら首をかしげられたので、次に「ジャパン」と言ってみたら、「おぉ~~~!」とものすごく驚いた顔をされた。

    普段、居住区の外へはあまり出掛けないだろうと思われた、高齢のアボリジニの女性だったが、彼女がメルボルンは知らないけど、日本を知っていたと思うと、それこそオレ様のほうが「おぉ~~!」と言いたくなったものだ。

    その女性は初対面であるオレ様の目をじぃーっと見ながら、どういうわけだか、突然ぎゅぅっと抱きしめてくれた。独特のアボリジニの人々の体臭。懐かしい鉄棒のようなにおいだ。なんてフレンドリーな優しいおばちゃんだろうかと、嬉しくなったオレ様も、ぎゅぅっと彼女の豊満な肉体をつかんだ時…!!!

    耳元で彼女がそうっとささやく。

    「さっきのあの絵、3000ドルでどうだい?」と。

    …さすがである。

    お見事だ。

    アボリジニアートプロデューサーなるもの、時に情にほだされてはならないというのも、鉄則かもしれない。ぎゅぅっと抱きしめられたぐらいで、3000ドル使ってはならないのである。

    さて、今度はどんな居住区へ出掛けてみようか。オレ様、そんなことを考えている時が一番楽しい。2009年、今年もオレ様の砂漠通いはまだまだ続きそうだ。

  • 皆様、新年明けましておめでとうございます!!!

    あっという間に迎えた2009年。毎年毎年、この「あっという間」という言葉を間違いなく繰り返しているオレ様だが、ほんとに一年は365日もあるのだろうかと疑いたくなる程、瞬く間に過ぎ去っていく日々。
    しかし、年々おもしろい程に深く刻まれる目じりのシワや、二の腕のふにゃふにゃ感等は、紛れもなく加齢を表しているじゃないかと妙に納得。そう、確実に、しかも恐ろしい程早く、時間は経過しているのである。おまけに最近、目までかすんできたオレ様は、周りから容赦なく「もう若くはないんだからね。無理は利かないよ」と言われるのだが、そんな時こそオレ様は、砂漠へひとっ飛びするのである。

    なんてったってアボリジニ社会では、オレ様はいつだって子供扱いされるし(なんのことはありません。ただ他のアボリジニの女性達のように、お乳が垂れ下がっていないからという理由だけです)、時には『いい子、いい子』と言わんばかりに、長老から頭をなでられることだってあるのだから。
    42歳になるオレ様に『いい子、いい子はないだろが』と一瞬抵抗を感じたりもするが、いやはや…これがまた、エラく心地よかったりするから不思議である。
    そう、人間いくつになっても『甘えたい』という欲求は、誰もが素直に抱くものなのであろう。
    それにしても長老様。オレ様の頭をなでてくれるのはいいが、何も、ついさっき、カンガルー丸ごとナマで食べた後の、その油ぎったベトベトの血だらけの手で『いい子いい子』してくれなくてもよかろうが。

    さて、そんなことより、今年最初の話題は一体何にしようかと、あれこれしばし頭を悩ませた。
    そこで、先日豪州国内で一斉に公開された、今一番タイムリーで話題の映画「オーストラリア」について、少し話をさせていただきたい。…といってもオレ様、最近メルボルンを離れていたので、実はまだこの映画を観ておらず、そんなオレ様に、一体何がコメントできますかと、周りはきっと不信感を抱くでしょうが、まあまあそんなカタイことはおっしゃらず、これから映画をご覧になる皆様への、ほんの少しの参考にでもなればと、おせっかいばばあのひとり言だと思って、どうか黙って読んでおくんなさい。……って、ここまで読む間に、もうすでに疲れちゃいましたとおっしゃる貴方様。ちゃんと読んでくださいませってば。決して後悔はさせませんよぉおぉおお。

    この映画は、バズ・ラーマン監督が、広大なオーストラリアのアウトバックを舞台に、長い間練りに練った構想の元にできあがった、スケールのでっかい超大作だ。
    簡単に言ってしまえば、英国貴族の女性である主演のニコール・キッドマンと、全く反対の世界に身を置く荒々しい牛追い人、ヒュー・ジャックマンが、過酷な土地を9000キロも進む旅に出掛ける道中で、様々な体験をしながら、お互いの心をつないでいくというアドベンチャーラブストーリーなのだが、ここで何よりも重要な部分を占めているのが、先住民アボリジニの人々の存在なのである。

    監督いわく、出演者の俳優達は全員オーストラリア人にしたという。それぞれのキャスティングには、大分頭を悩ませたらしいが、その中でも一番困難だったのは、混血児の子役を演じる「ナラ」を見つけることだったらしい。
    全く演技の経験がない素人の幼い少年を、しかも1000人もの中から選び抜く為に、監督は自らあちこちのアボリジニの居住区へ赴き、そこで長い期間、彼等と寝食を共にして、見事子役の「ナラ」を獲得したのだ。これはオレ様の経験から言っても、まさにマジック的なプロセスである。お見事としか言いようがない。心の中で「降参! まいりました」と3000回ぐらい唱えたい、そんな心境だ。
    何しろ、特定のアボリジニの人々と長く一緒にいるということは、まずは彼等に自分が「怪しいヤツではない」という確信を持ってもらわねばならない。これはどの社会でも一緒。誰も好き好んで見知らぬ怪しい人間を、自分の身近に置きたいわけがないからね。
    ただ、アボリジニの人々は、我々以上に特に警戒心が強い為、お互いの信頼関係を結ぶまでには、想像以上に時間がかかるというわけだ(ちなみにオレ様、自由に居住区へ出入りできるようになるまで5年はかかった)。
    おまけに普段都会で暮らしていない少年を、1年以上もの長い間、撮影スケジュールで拘束し、場面ごとのセリフを学ばせ、いかにして、この映画全体での重要人物的存在に位置付けするか…。

    もう一つおまけに言わせてもらえば、今回の撮影現場となったノーザンテリトリーの大地には、もちろんアボリジニが所有する土地も随分あったであろう。何よりも大地との精神的・肉体的なつながりを大切に考えるアボリジニの人々から、その撮影の許可をもらうことが、どれだけの忍耐と努力を必要としたことか、想像するだけで鳥肌もの。
    それもそのはず。オレ様自身も、以前何度か日本のメディア(テレビ関係者)を撮影の為にアボリジニ村へ連れて行った経験があり、撮影許可がそうそう容易に取れるものではないということを、嫌という程、味わったからだ。
    オレ様には、全く見えるはずのない大地の境界線のようなものを、彼等は指差しながら「ここからここまでは自分達のカントリーだから撮影OK。でも、あっち側は他の人のものだから絶対NO」というように。そのきわどい境界線ギリギリのところを、少しでもはみ出してカメラに収めようものなら、彼等は途端にご機嫌を損ねて、直ぐさま「撮影中止」と言いかねない。
    異なる文化と価値観で暮らすアボリジニの人々に、日本人の想いを理解してもらう為に、オレ様は何度も現地でウソ泣きをして、彼等の同情を乞うたものだ。時々声を荒げて泣いてみると、効果もそれなりに高いということも学んだ。あのオレ様のウソ泣き演技こそが、ニコール・キッドマンをしのぐ名演技だと思ったものだが、最後はただの泣き虫野朗と言われただけなのが、なんとも悔やまれる。ちなみに撮影は成功し、空撮までやっちゃった。

    それにしてもこの映画『オーストラリア』が完成するまでには、並外れた舞台設定と相当なスケールでの撮影技術、そして2000着以上の衣装が用いられたという、とてつもない大事業であったことは間違いないのだ。なんでまだ映画を観ていないオレ様がこんなことを言い出すのか、諸君はきっと不思議だろうが、この際そんなことはどうでもよい。いいといったらいいのだ。
    美しい英国貴族のニコール・キッドマンが、オーストラリア大陸に渡ってきたことによって発見する、今まで気付くことのなかった本当の自分。そこで関わる先住民アボリジニの人々の自然と共生した暮らしぶり。そして、これまで誰もまだ見たことがなかったに違いない、とんでもなく美しいアウトバックの景色。
    訪れた誰もを、素のままの自分に戻してくれるオーストラリアの赤い大地に、2009年もオレ様はせっせと通うことになるだろう。“素のままの自分”をもっともっと探し出す為にね。
    そしたらアッという間に腹黒い自分を発見しちゃって、そんな自分に結構ショックを覚えたりしちゃうかも(笑)。ま、それはそれでいいのかもしれないが。

    とにかく、しつこいようだが 、この映画を実際に観ていないオレ様が、こまでお勧めするんだから、間違いない。素晴らしい作品に乾杯。

    そして最後になりましたが、2009年が皆様にとりまして輝かしい一年でありますように。

    今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

  • 野生のチーター

    いやはや。まさに嵐のように過ぎ去った2008年であった。
    オレ様にとってこの1年間は長い長い間、ずっと思い描いていたものが、やっと“カタチ”として現実のものとなった、このうえない幸せな時間となった。アボリジニアート『エミリー・ウングワレー展』の日本開催である。

    これまでの苦労話や展覧会が実現した時のオレ様の尋常ならぬ興奮等は、すでに過去の紙面で綴らせてもらったので、今更あれこれと書くことは控えるが、こうした大きなものを達成した後の自分自身と、今、改めて静かに向き合いながら、実に様々な気持ちを楽しんでいる。
    …といったら聞こえがいいかもしれないが、正直、毎日一人でボケーッとしながら自分の仕事部屋で大半の時間を過ごしているのが現状だ。何をやるわけでもなく、目の前に積み重なっている展覧会で使った資料をきちんと整理しなくちゃ…と思いながらも、まだ机の上はぐちゃぐちゃ状態。必要な資料を一つ探すたびに更に散らかるといった最悪の状態だ。
    とにかくやる気が起きない。それでもちゃんと腹は減るので、ご飯をモリモリかっ食らう。食べたらたちまち眠くなる。とりあえず昼寝をする。そうすると夜眠れなくなって夜更かしする。夜更かしすると朝起きられない…といった生活パターンは、堕落人生まっしぐらのようだが、考えようによって、これはとても贅沢な暮らしではなかろうかと思うが、いかがだろう。

    企業に勤めていたら、とてもこんなことはしちゃいられない。組織にいる為のコミットメントが山ほどあるからだ。こんなの当たり前のことだ。
    “会社の名前ではなく、自分の名前で生きていきたい”。
    そんな生意気なことを考えて、会社をポンと辞めたオレ様だった。当時26歳であった。
    企業を辞めた途端、年賀状の数がグンと減った。それまでしつこいぐらいに「飲みに行こうよ~」と誘ってきたトノガタからも、さっぱり電話がこなくなった。
    世間とはやはりそんなものか。今まで肩書きや組織に所属していた自分と付き合ってくれていただけなんだ、と思ったものだが、それはそれでせいせいして、結構気持ちが良かったもんだ。
    逆に、会社の枠をとったことで、その後、実に多種多様な人達と仲間になれたことのほうが、オレ様の心はずっと満たされたものだった。

    2000年に小さいながらも、自分の会社をオーストラリア、メルボルンで設立した。資本金なんてものはほとんどなく、泣きたくなるぐらいの貧乏会社でスタートした当時のオレ様には、希望に満ちた未来等はかけ離れた存在だった。だが、未来なんてものは「予測する」ものではなく「作っていくもの」だ、といつも自分に言い聞かせていた。自分のマインドひとつで、いくらでも変えられるものだとね。
    貧乏ながらも積極的な意志を持つことが、後々の自分の人生を左右するんだと、ずっと思い続けていたら、本当に周りが少しずつ動き始めたから驚いたもんだ。
    2008年10月、自分で企画する展覧会を神戸で開催した。オレ様の今年最後のイベントである。
    大好評だったエミリー・ウングワレー展のおかげで、日本におけるアボリジニアートの評価も随分大きくなり、会場へはきっとたくさんの方々が、遠方からも足を運んでくれるに違いないと確信していた。
    開催した『ギャラリー北野坂』、ここは安藤忠雄氏が設計されたというモダンで広々とした空間で、8,000km離れたオーストラリアの大地から、はるばる海を越えてやってきたアボリジニ達の作品を一段と華やかに、それはそれは美しく演出してくれる。
    元々天地左右の決まりがないアボリジニアートを1点1点壁に掛けながら、「縦にしようか。いや、横に掛けてみようか?」と、ああでもないこうでもないと迷いながら行なう準備作業が、一番楽しいひと時だ。
    通常、日本での展示会を行なう時は方法が二通りあって、一つは開催ギャラリーが「企画展」として行なう場合。もう一つは、主催するオレ様側が規定の賃料を支払い、「貸しギャラリー」としてそのスペースを一定期間借りて展示会を行なうといったものだ。
    「企画展」では主催するギャラリーが、展示作業から案内状の作成、オープニングパーティー、各メディアへの広告宣伝、展示会中の集客等、全てをケアしてくれて、最後にあらかじめ決めておいた販売が成立した時の手数料(コミッション料)を支払うわけだが、もう一方の「貸しギャラリー」となると、それらの作業を全て自分達で行なわなければならない。当然だが、頭の痛くなることばかりである。

    企業に所属していた時には、「所詮、人様のお金」として遠慮なく使わせてもらっていた経費も、今やコピー用紙1枚を裏と表、必ず両方使うケチケチ野朗のオレ様は、日本の展覧会を開催する度に「どうか赤字だけにはなりませんように」と、毎朝両手を合わせるのである。

    『ギャラリー北野坂』は貸しギャラリーだった為、事前の準備にたくさんの時間を費やした。日本での強力助っ人、佐久子様のお力を借りながら、「まずは宣伝、集客だ」と関西方面の各メディアに片っ端から手紙を出したが…反応はゼロ。ほとんど回答なく、無視された。
    それなら、あとは出たとこ勝負だ! とやる気満々で迎えた展示会の初日…。外は台風で大雨だった。お客様、ほとんどなし。

    それでも「積極的な意志が自分の人生を左右するはずだ!」と、毎日笑顔でギャラリーへ通ったオレ様と佐久子様だった。
    本来は、スペースだけを提供してくれる「貸しギャラリー」であるはずの、ギャラリー北野坂の女性オーナーは、毎日気合だけは十分というそんな我々を見るに見兼ねたのであろうか。「がんばりましょうね」と、娘さんと一緒に毎日おいしい手作りおにぎりを差し入れしてくれたり、細やかなアドバイスをしてくれたりと、まさに至れり尽くせりだったのだ。
    「本当に優しい人って、きっとこういう方達を言うんだろうな」と感謝せずにはいられず、温かさが心にしみ込んだ6日間であった。

    こうして、今や自分の名前で、ようやく仕事ができるようになったものの、まだまだ浮いたり沈んだり、忙しい毎日のオレ様だ。
    組織の中での安定も確かに魅力的ではあるが、オレ様はこれからも自分のエサを自ら探しに行く「野生のチーター」でありたいと願っているのは、決して強がりではないということを信じていただきたい。

    でも、展示会中に会場へ来られた、年収10億円は軽く越えるだろうと思われた初老のトノガタと話をしていて、「この人、こんなにお金持ちなら、それだけで一生どころか5回ぐらい人生をやり直せるだろうにな。うらやましいかも」なんてことは

    オレ様、絶対思ってないからね!

  • ありのままの自分とは

    10年越しの思いであった念願のエミリー展が日本で開催され、しかも12万人という入場者を記録する等、予想を遥かに上回った今回の結果に、関係者一同はもう感無量。

    オレ様だって嬉しさのあまり、祝杯を毎日毎日じゃんじゃかあげて、泥酔状態になっていたことは、いうまでもない。
    二日酔いで死んだ人間がいるとはこれまで聞いたことがないが、死にそうになった人間というのは紛れもなくこのオレ様のことかもしれない。何しろ、苦しくて何も食えずにゲーゲー出す一方。そしたら体重一気に3キロ減。ダイエットには二日酔いがいいかもしれない。

    しかしだ。

    オレ様、酔っ払いながらも、ここでひと呼吸入れてちょっと真面目に考えてみたことがある。

    確かに、エミリー展の結果は素晴らしかったといえよう。しかし、結果や成果のみが追求される現代の社会では、たとえその経過で絶大なる努力をしていたとしても、きちんとその「結果」を出さなければ、なかなか評価をされないものなのだということ。悲しいが事実だと思う。もしもエミリー展の入場者数が1万人であったならば、日本のメディアは同じようには取り上げなかったはずだ。

    つまり、「結果」が伴わなければ周りは評価しない。そうなると、人間の根本的な欲求である「評価されたい」「認められたい」という欲求への不充足感を「結果」を出せないという事実から、常に抱き続けなければならないのだ。

    すると、いつの間にかそれがストレスとなり、気付かぬうちにそのストレスに翻弄されて、些細なことでもクヨクヨしてしまっている自分がいるということを、オレ様は今回のエミリー展プロジェクトに携わって、一番強く感じたことだった。

    何が体当たりしてこようが、何食わぬ顔で、もっとデーーーーーンと構えていられるだけの強い「こころ」を持っていられたら、どんなに人生楽チンだろうか…と願わずにはいられなかった。

    アボリジニの人々と時間を共有するようになって、間もなく10年以上が経過する。
    彼らこそ他人の目に惑わされることなく、実に“深くまっすぐに生きている人々”であるということに、いつも気付かされるオレ様だ。

    彼らの社会には、「出世欲」もなければ「世間体」も存在しない。あるのは大いなる「食欲」と「性欲」だけだ。ほほぉ。何て人間らしいんだろう。
    だから一緒にいて、オレ様はとてもとても気持ちが良いのだろう。何より自分が自分自身「ウチダマユミ」でいられるという解放感に、堂々と、どっぷりと漬かれるからだ。

    メルボルンから飛行機で3時間。そして更に車で4時間半の道のりを、オレ様はこの“気持ちの良い人達”に会いたい一心で、毎度毎度通い続ける。
    どこまでもひたすら続く真っ直ぐな道のりでの運転は、人間を実に素直にさせてくれるものだ。もしも目の前に片思いのトノガタがいたら、間違いなく告白していると思う。

    灼熱の太陽がガンガンと照らす大地で、“素”のままの“ありのまま”のアボリジニの人達と一緒に過ごす時間はとても楽しい。
    自分達が採った砂漠のご馳走、トカゲやイモムシを自慢しながら、わいわい騒ぐひと時はまさに至福の時だ。

    自分で言うのもおこがましいが、オレ様はアボリジニの女性の儀式に参加を許された唯一の日本人でもある。上半身裸になり、電気も水もガスコンロもカラオケも何もない砂漠のど真ん中で、1週間彼らと生活を共にし、歌い踊る体験は、まさに「生きる」という生命力を身体いっぱいに叩き込まれることだった。

    毎夜、汗と砂埃でなかなか寝付けなかったが、見上げる星空に輝く満点の星を一つ一つ数えて、「あれが全部白米だったら、茶碗何杯分のご飯になるんだろう…」と意識朦朧状態だったことは、まだ記憶に新しい。

    こうした自分の体験談を、オレ様はこれまで日本のあちこちで講演してきたのだが、どうも現代の日本人の皆様には、今一つピンと来ないようで、あまりにも現実離れしすぎた話として受け止められることが多い。

    しかし、どうだろうか。

    日本で新しい携帯電話機種に殺到する人が、あれほどいるという現実。あれこそオレ様には信じがたい現象だ。モノや所有欲に支配されて、どこか「豊かさ」が狂っちまっているとしか思えてならない、今のニッポンそのものではないか。
    生き方や幸せが、あまりにも周りに振り回されていやしないだろうか。すべて自分のことなのに…と、いつになくオレ様が、真面目にコメントしたくなったのには、きっと自分自身こそが「自分とは」を追求したくなったからなのだろう。

    臭いトイレに膝まずいて、便器をしっかりつかまえながら、オレ様は真剣にそんなことを考える今日この頃であった。二日酔いになるのも、なかなか感慨深いものである。

    ということで、オレ様は今後も更なる自分探しの旅に出発することに決めた。あてのない、果てしない旅になること間違いなしだが、その時その時に、たくさん笑っていられたらいいなと思っている。

    それにはアボリジニの人々の存在なしでは、とても考えられないので、今後もオレ様は彼らとたくさんの時間を共有するつもりだ。

    素晴らしい出会いに心から感謝。

  • 至福のひととき

    ここのところずっと、オレ様は日本で開催されたアボリジニの女性画家「エミリー・ウングワレー展」のことばかり書き綴ってきた。
    何しろ、これは10年越しの念願叶った、かなり思い入れの強い展覧会だっただけに、必然的に感情移入も多くなる。
    断っておくが、この企画展は何もオレ様が実現をさせたわけではない。発起人の一人であったことに間違いはないが、実現に際しては、あくまでも“黒子”として、アボリジニの人々側と関係者側への橋渡しとして動くことに徹した。

    そもそも、一つのアート企画展を日本で行なうのに、なぜ10年もの時間を要したのであろうか?
    それは、「エミリー」というアボリジニの86歳の女性が、日本では全くの無名であったからだ。誰もそんな名前を聞いたことはないし、しかもアボリジニアート自体、日本における知名度が、まだまだ高くはなかったということが理由の一つだ。

    「知らない人達へは知らせる」努力をすればよい…一念発起したオレ様は、微力ながらも、これまで様々なメディアや講演・執筆を通して、オーストラリア先住民アボリジニ達の深遠なる5万年も継承されてきた文化とその歴史、そしてその彼らの他に例を見ない魅惑的な美術をひたすら紹介し続けた。

    そしたら、あっという間に15年も経っちまった。気がついたらお嫁に行くのもすっかり忘れ、孤独な独身オンナとして、今は間違いなく自分の老後を心配し始めている。
    しかしながら、たくさんの人達がオレ様の活動に賛同をしてくれ、力と勇気を与えてくれた。
    中には「何で、内田さん、アボリジニなの? 何が魅力なの? もしかしてがっぽり儲けてんの?」なんて素直に自分の質問をぶつけてくる人もいた。

    はぁーー。がっぽりねぇ~……。

    確かにアボリジニアートをビジネスとして捉えて、一攫千金をつかんだ人は数多くいる。
    ついこの間まで大工だった人が、いきなりアボリジニ・アートディーラーとして絵画を買い付け始め、それをべらぼうな価格で販売していたりするんだから。

    オレ様も砂漠へ行けば、たまたま空港から乗り合わせたタクシーの運転手から「アボリジニアートに興味あるか? 俺んちにいいのが置いてあるけど、これから見に来ないか?」なんてよく声をかけられたりするもんね。

    こういった人達はアボリジニの芸術どころか、人権までもまるで無視し、ただただ金の亡者として、とんでもなく質の悪い絵画を市場に出す、許せない奴らだ。
    オレ様から言わせれば、間違いなく銃殺刑にしてやりたい程である。
    これは、未だに94年モデルのオンボロカローラをブイブイ言わして乗り回しているオレ様の、ただの嫉妬だとご理解いただければよかろう。ちなみに30年で組んだ家のローンも、まだたっぷり残っとる。とほほほほ…(涙)。

    さて、話が随分横道に反れてしまったようだが、こうして長い長い道のりを経て、やっと実現した日本でのエミリー展。無名のアボリジニ画家の企画展に、何と10万人以上の来場者があったというではないか!!!
    これはヨーロッパの有名な印象派画家の展覧会に、軽く70万人は入るということにも勝る大きな大きな価値に値するものだ、とオレ様は一人興奮冷めやらず。

    また、期間中には皇太子ご夫妻もお見えになられ、大変感動をされていたという記事を、オレ様は日本滞在中あちらこちらで目にしたものだ。そして、何よりも嬉しかったのは、これまで体調がいま一つ優れなかったという雅子様が、このエミリー展から、実にたくさんの大地のエネルギーを得られて、随分癒されたと報道されていたことである。

    80歳間近で、いきなり彗星のごとく砂漠から現れたアボリジニの女性画家、エミリーの作品には、どれも「生きる」ということ、自分達が大地に「生かされている」ということを、深く真っ直ぐ教えてくれるのであろう。だから素直に感動ができるのではないだろうか。

    さて、このエミリー展。大盛況の元日本で幕を閉じ、いよいよ豪州キャンベラで、8月21日幕開けとなった。会場となったのはオーストラリア国立博物館である。
    オレ様も開会式の招待状をいただき、喜びを胸いっぱいに抱いて出席させてもらった。

    思い起こせば日本での開会式では、一緒に来日をさせたアボリジニのおばちゃん達の世話に明け暮れ、余裕も何もあったもんじゃなく、ただただあっちへこっちへと駆け回っていただけであったが、こちらキャンベラでは、ゲストの一人として、堂々とうまいワインをがぶ飲みできる。至福のひとときだ。

    しばし、ほろ酔い気分に浸っていたその時! 突然オレ様の視界に、色の黒い見慣れた人達の姿が飛び込んでくる。
    「ま~ゆ~み~。あんた、ワイン飲んでる場合じゃないよ。私達の面倒見てもらわなきゃね」と、バーバラが“やっと見つけた”と言わんばかりに、こっちへ来い来いと手招きする。
    いーち、にぃ、さーん、よん、ごー、ろく……。

    キャンベラには、何と6名のアボリジニご一行様が、ご到着されていたではないか。女性4名、男性2名だ。いや…、一人男か女かよくわからない体格と顔つきの人がいるから、この数字は定かでないかもしれない。ええい…この際どっちでもいい。
    …ということで、オレ様の至福のひとときは、ここでアッという間におしまいとなり、明日からまた使用人として、こき使われる運命に変わってしまった。

    華やかな舞台は、オレ様にはどうも似合わない。黒子は黒子らしく、こうして舞台裏の仕事を立派に努めようと明るく決心し、最後のワインを一気に飲み干した。

  • 夢の東京滞在記

    6月下旬の東京は、すでに梅雨入りをしていた。どんよりとした雲の間から、しとしとしとしと…と、雨が静かに都会のコンクリートを濡らしていく。

    朝、ドライヤーで髪をバッチリセットしたはずのオレ様だったが、すでにこの湿気たっぷりの雨降りで、クセ毛の前髪があっちこっちへと気が狂ったように踊り出している。最悪。

    オレ様が今回、一緒に連れて歩いているのは、普段乾燥したオーストラリアの中央砂漠で暮らすアボリジニの女性画家達。バーバラとトリーザ親子だ。国立新美術館で開催されるエミリー・ウングワレー展の晴れの開会式へ、日本に招かれた特別ゲストの2人だ。

    そんな彼女達が、最後に砂漠で雨を見たのは何と、1年半前だというではないか。なるほど……わかったよ……だからなのね……。

    ワンタッチ傘を「珍しいから」と言って、地下鉄のホームでパチパチやる娘のトリーザ。きゃっきゃっきゃっきゃっと大騒ぎで手が付けられない彼女は、もうじき46歳になる。

    「電車の中では絶対やるなよ」と、オレ様がおっかない顔で注意しても、まるで聞いちゃいない様子だ。

    「ショッピング! ショッピング!」と、二言目にはオレ様の腕をぐいっと引っ張って、「どこか連れて行け」とだだをこねる。くどいようだが46歳。
    すると、間髪入れずに母親のバーバラも、「日本には珍しいおもしろいものがたくさんあるから、ショッピングに行きたい。ショッピング! ショッピング!」と言って、さっさと先に歩き出して勝手にタクシーを止めてしまう。ちなみに彼女は67歳。

    贅沢は敵だ…。42歳のオレ様は、そう自分にいつも言い聞かせる。「タクシーなんてもったいない。歩け歩け。地下鉄に乗るぞ」。そういって止まったタクシーに、「ごめんなさい」と頭を下げてそのまま行ってもらい、2人を地下鉄の駅まで歩かせる。

    これまでオレ様は、何度もアボリジニの人達を日本に連れて来て、ショッピングにお供したことはあるが、まずスムーズに、事が済んだためしがない。ある者は値段を見ずにレジに品物を持って行き、「合計27万円です」と言われて恐怖におののいたり、ある者は試着したまま店の外に出て来てしまい、店番のオヤジさんに大声で呼び止められたり…。思い出したら…ああ、キリがない。

    しかしながら、今回オレ様がご一緒しているのは、街で暮らした経験もあるトリーザとバーバラだ。まずはそれほど大きな問題はなかろう…と安心しきったオレ様が、やっぱりオオバカ野郎であった。

    人間にとっての「物欲」というのは、自分の目の前にそれだけのチョイスがたくさん存在する時に発生する心の欲求で、だからこそあれもこれも手に入れたいと願ってしまうのだ。

    普段、最寄りの街から何百キロも離れて暮らす娘のトリーザは、スーパーマーケット一つないアボリジニの居住区で、実に快適に暮らしているというではないか。「不自由に感じることはないの?」そうオレ様が尋ねても、「初めから手に入らないとわかっているから、そこで“欲しい”なんてまず考えないわよ」と、ケラケラッと笑いながら、2袋目のポテトチップを開け始めた。

    ところがどうだろう。2人をショッピング天国のアメ横に連れて行った途端、顔つきが一変したのである!!!

    ビニール傘は買い物に邪魔だ、とオレ様に無理やり押し付け、まず2人は眼鏡屋に飛び込んだ。砂漠は直射日光がやたら強いからと、UVカット入りのサングラスを次々に試着。あっちがいい、こっちの色もかっこいいと店内でわーわー騒ぎながら、オレ様に耳元で「値切れ」と命令。どこまでも強気の2人だ。

    1時間後、それぞれ3ペアずつ購入し、大満足で店を出た。店との値段交渉で疲れ果てたオレ様は、口数少なく、とぼとぼ2人の後ろを歩く。いっそのこと、このまま2人をまいて逃げてやろうか…。そんなことまで考えたものだ。

    そのとき2人が同時に指を差した店。今度は靴屋だった。
    後ろにいるオレ様を振り向くわけでもなく、彼女達はまるで掃除機にでも吸い込まれるように靴屋へと消えていった。
    少し遅れて店に入ったオレ様の視界には、端から端まですべての靴を試着して店内いっぱいに脱ぎ散らかしているトリーザとバーバラがいた。2人合わせて113歳だ。あんまり関係ないが、オレ様の思考能力はもうギリギリのところまで来ていた。

    2時間後。聞いて驚くなかれ。2人はその靴屋でそれぞれ6ペアずつ購入し、荷物がこんなにたくさんになってしまったからと、新たに新しいスーツケースを2つ購入。
    ここでオレ様、すでに死んだフリ。完全に動けなくなってしまった。

    気がつくと、雨はすでにやんでいた。…瞬時にいや~な予感がしたが、それが見事に命中。さっきまで差していたビニール傘を、オレ様の予想通り、2人ともどこかに置き忘れたからと、それをこれから探しに行くことに。

    その途中でトリーザが「糖尿病の注射を打つ時間が来た。トイレに行きたい」と突然のたまう。「この注射を打たないと死んでしまう」とまで言い出す。オレ様、急いでビルの中に入り、トイレ探しに奔走した時、バーバラが「腹が減った。何か食わせろ。空腹で目が回ってきた」とやや不機嫌な顔をする。
    ああああああああ~~~~~~~!!!!!! いい加減にしてくれ~~~~!!!!!!

    オレ様は、この時生まれて初めて、殺意というものを抱いたような気がする。
    さもなければ2人を大型の段ボール箱に詰めて、近くの郵便局からアリススプリングスまで送ってしまえ……と、真剣に思ったのも事実である。

    贅沢は敵……のはずだったが、今の敵は間違いなくこいつら2人だと確信したオレ様は、誰よりも早くタクシーを拾ってさっさと家路についたのさ。

    翌日、無事に開会式に出席をした2人は、会場へ来ていた来賓の人達に「ジャパン、最高。ショッピング、サイコー!」と楽しそうにそう言っていたっけ。

    まだまだ日本では無名であるエミリー・ウングワレー展。しかし、もはやすでに10万人近い入場者数を記録しているというこの現実に、関係者はみな驚きを隠せない。
      
    「無」から生まれ出た生命力溢れる86歳のエミリーの絵画は、文明にどっぷりと漬かったオレ様達に圧倒的なエネルギーで様々なことを訴えてくる。

    日本でのエミリー展開催の実現に、心から感謝を述べたい。

  • 夢の東京滞在記 その1

    念願であったアボリジニの天才女性画家エミリー・ウングワレーの展覧会日本開催が、いよいよ実現するときがやってきた。しかも、会場となるのは、東京で今最も熱いスポットととして注目を浴びている国立新美術館。オレ様の豊満な胸の鼓動が、ひときわ大きく高鳴る。

    開会式への正式な招待状をオーストラリア国立博物館より受け取ったオレ様は、例によってアボリジニの画家を2人ほど来日させるべし、とのご使命を受けた。そう、エミリーの親族であるアボリジニの人達が、開会式の特別ゲストとして日本へ招かれるという大イベントなのである。人選はすべてオレ様任せ。こりゃ責任も重大だ。

    最初は3人の来日予定だったのだが、途中で「予算が足りないから一人カットね」とお役人様がそうおっしゃってきたので、オレ様は素直に候補者を3人から2人に絞り、早々に日本滞在の計画を立て始めた。

    先月号でご紹介をしたジェニーちゃんと、アナちゃん。残念ながらパスポートが期日までに間に合わず、今回は泣く泣く日本行きを断念することに。

    そこで、代わりに日本行きのチケットを手に入れたのは、普段、街から数百km離れている小さなアボリジニ居住区(人口10人程度)で暮らしている女性画家、トリーザ嬢。彼女は数年前に、個展でヨーロッパへ行った経歴があることから、パスポートをすでに持っていた為、話が早かった。しかも、今回一緒に来日をするもう一人の画家、バーバラの実娘でもある。親子で一緒に来日となれば、オレ様もそれほど過度の気遣いは必要ないであろう。いつものように、そう勝手に自分に都合良く暗示をかけて、2人の日本行きをサポートすることに。

    しかしながら、初来日となる娘のトリーザが、実は糖尿病の持病持ち。うーーん。そうなると道中がやや心配ではあるが、「自分でケアが十分にできる」と本人がそう言ったのでGOサインを出した。

    すると母親であるバーバラが、そうっとオレ様に耳打ちするではないか。「ナニナニ…」と話を聞いてみると、アボリジニの社会ではこのような機会に、つまり第3者が居住区からはるか海を越えた海外へ、アボリジニを連れて行った場合のことだ。万が一、当人に何かアクシデントが起こったときには、その当人を連れ出した者、つまり今回のケースではこのオレ様に、どうやら重大な責任が負わされるという。だから十分に気をつけろというのである。

    具体的に何をされちゃうのか、とバーバラに訪ねると、いやはや…オレ様はまずスッポンポンの全裸にされ、見渡す限りの地平線の大地に一人ぼっちでしばらく立たされ、その後、あっちからもこっちからも先のとがった槍のようなものが、オレ様目掛けて飛んでくるんだって。「これ、脅かしじゃないよ」って、バーバラがいつになく真剣な眼差しでオレ様を見つめる。や、やめてくれ。そう思いながらオレ様の脳裏には、砂漠のど真ん中で、すでに裸体で血だらけになっている自分の姿が、はっきりと想像できたのだ。

    こんなとんでもないリスクを負ってまで、オレ様はアボリジニの人達を日本へ連れて行く度胸が、いったいどこにあるというのだ。

    オレ様はすぐに、キャンベラの展覧会担当者に電話をして事情を話し、この件に関して、まじめにおうかがいを立ててみた。すると「大丈夫よ。みんなには、ちゃんと保険をかけているから。そんな話なんて信じちゃだめだめ。あなたなら心配ないわよ。おほほほほほ」といかにもお気楽なのである。

    何が「おほほほほ」だよ~。頼むよ~。オレ様が血だらけでヤリ攻めになったって、どうせお役人様にとっては他人事だよな。旦那も子供もいないオレ様が、あの世に逝ったって、悲しむ人は親兄弟だけだと思っているに違いない。

    よし、いいだろう。やってやろうじゃないか。オレ様だって男だ(←えっ? いつからだ?)。こうなったら目ン玉くり抜かれようが、前歯を砕かれようが、オレ様はアボリジニと一緒に日本へ行くぞ!!!

    ………というわけで、しっかり者のオレ様は、事前にきちんと遺書を作成して、トリーザとバーバラとともに東京へ出発した。

    それにしても娘のトリーザ、糖尿病というだけあってかなりの体格だ。どう見てもエコノミー席の座席にお尻が入りそうにない。

    そこでチェックインの時に、「トリーザ、演技。演技。具合の悪いフリして。今直ぐ。ゴホゴホ咳き込んでりゃいいから」と、残された命ももうあとわずかだと腹をくくったオレ様に、もはや怖いものは何もない。うそつき呼ばわれされたって構わないのだ。

    ひどい風邪をこじらして咳き込むトリーザの隣を空席にしてもらえば、彼女は2席つぶしてちゃんと座ることができるというわけだ。

    作戦成功! 主演女優賞なみのトリーザの迫力満点の咳き込み演技に、チェックインカウンターのスタッフは恐怖すら覚えたらしく、「医師の診断書はあるのか」なんてことまで聴いてきた。

    結局、2席ではなく3席分を確保したトリーザは、糖尿病用の薬をいっぱい機内に持ち込んで、快適な空の旅を十分楽しむことができた。

    それにしてもこの糖尿病患者、ものすごい食べっぷりだ。日本滞在中は、珍しいタベモノすべてに興味津々。レストランではいつも2人前を注文していた。

    それでも毎朝、自分で血糖値を検査し、夕方には忘れずにインシュリンの注射を太ももに打つ彼女。買い物に狂っている時でも、注射の時間になると、ところかまわず太ももにブスリと注射。さすがに手馴れたもんである。

    買い物といえば、今回初来日の彼女が一番興味を示したのが、日本のアニメグッズであった。子供達へのお土産というのが当初の名目であったが、実は自分があれこれ欲しかったようで、連れて行った秋葉原の店内では、あれもこれもと手当たり次第、買い物かごいっぱいにアニメグッズを詰め込んでいた。

    地下鉄を歩いていても、アニメポスターを見つけると、直ぐさま記念撮影。電車の中では、隣の席の人が読んでいるマンガ本を興味深くのぞき込み、何度も怪訝そうな顔をされたもんだ。

    普段、スーパーも映画館も何もない辺境地帯(何しろ牛乳一つ買うのに、30km運転しなければならない環境だからね。しつこいようだが、人口もたったの10人)で暮らす彼女である。「日が暮れる頃には、することがないので、いつもさっさと寝てしまうよ」と言っていた。

    そんな彼女に、東京の昼間の高層ビル街、夜の怪しいネオンの繁華街、いつも満員の通勤電車の光景は、いったいどのように映ったのであろうか。

    彼女はしきりに「まるで自分が、映画のセットの中にいるようだ。とてもこれが現実とは思えない」と、オレ様にそう言っていたのがとても印象的だった。

    さあ、そんなトリーザの日本滞在記。果たしてオレ様の命は無事なのか。それは来月号のお楽しみとさせていただこうではないか。