早いもので、「あの」出来事からもはやすでに3ヶ月が経とうとしている。
そう、今回久々に誌面に登場させていただいたのは、私自身「あの」出来事を皆様に切にご報告したかったとともに自分のこれからまだまだ続く(と何の根拠も無く願っている)長い長い人生の途上においても決して忘れることのない大切な記録として残しておきたかった・・・というのが本音だろう。

いまだに「あの」出来事を思い起こすたびに正直言ってまだまだ感傷的になる自分が存在するがそれをあえてここで皆様にお話させていただきたい。

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「内田さん。お願いがあるんですが。今年3月11日に行われる東日本大震災追悼式のイベントにオーストラリア先住民のアボリジニの方たちを日本へ、福島県いわき市へ招きたいんですが何とかご協力していただけませんか。」

こんなメールが私の受信トレイにぽーんと飛び込んできたのは1月もほぼ終わりに近づいていた頃だった。
最初は「・・・へ???何のこっちゃ???」と意味が良くわからずすぐにメール差出人の方へ、つまりメルボルンに居る私は日本へ国際電話をかけてまずは事情を詳しくうかがった。

主催者の方曰く、「昨年、日本を襲ったあの大惨事。近年、我われ日本国はどうしても新しいモノづくりに何かと目を奪われてしまっています。そこで遥か太古から『大地』とともに根強く生きているオーストラリア先住民アボリジニの方々から被災地の人たちへぜひ『大地からの祈り』を捧げて欲しいのです。」

気がつけば私たちはかれこれ2時間ほど話をしただろうか。電話の向こうの声はとても力強く、そして真剣だった。その結果いつものカッコつけマンのなんちゃってコーディネーターは二つ返事で「はい。わかりました。何とかお力になろうではありませんか!私にできることは何でもやりましょう。ところで何人ぐらいのアボリジニの来日をご希望なんですか?」といつもより3オクターブ高い声を出してうかがうと「そうですねえ。多ければ多いほど有難いんですが、大丈夫でしょうか。」あっさりそう言い返してきた主催者のYさんだった。

ちょ、ちょ、ちょいと待っておくんなさいな!

多ければ多いほどいいって・・・彼らのパスポート取得って申請これからやるんでしょ?
追悼式は3月。いま、もう間もなく2月でしょうに。それ、誰がやんの?
しかも私がいつも通っている砂漠のど真ん中に住むアボリジニの人々は若い世代でも木陰に穴掘って出産してたりするんだからね。間違いなく出生記録がない人たち、まだいるんだからね。そんな彼らのパスポートいつ取れるかさっぱりわかんないんですけど~~~(大汗)
不安材料は数えりゃトラック300台分ぐらいはざっとある。しかしながらここでジタバタしている時間はもったいない。急げ!準備だ!!こうなったら何が何でも彼らを日本へ招くのだあぁぁぁあ~~!!!自分のこめかみに紫色の血管がくっきり浮き出ているのを感じながらも、もはやあのときの私の興奮を止められる者は誰もいなかった。

ご存知の通りオーストラリア史におけるアボリジニの歴史はとても悲惨で悲しく、1788年のイギリス人による入植以来彼らは何かにつけ「野蛮人」として差別的な扱いを受け続けてきたことは否定できない。白人によるまさにゲリラ的行為でアボリジニ人口が激減し、権利を剥奪されてきたことはあまりにも有名な話である。

そんな歴史を担う彼らがいまやオーストラリアにおける社会的位置を大きく変化させ、多くの注目を集め、今回のように世界にごまんと存在する先住民たちの中から日本のこの一大イベントに公的に招かれるために選ばれたという、その名誉なことに私はとてつもない大きな価値を覚え、こりゃ何としてでも彼らを日本へ連れて行かねばという勝手な使命感を抱いちゃった・・・・というのがそもそもこのドラマの始まりだったのであった。

彼らの来日に際してなんちゃってコーディネーターは、ここぞとばかりに腕まくりをしてあの手この手の魔法をたくさん使った。気が付けば街の電信柱にも頭を下げているほど、それはそれは毎日たくさんの方々に頭を下げて取れるかどうか最後の最後までわからなかったアボリジニの人たちのパスポート取得に奮闘した。もちろん現地にアボリジニの人たちとともに暮らす強力助っ人、グラニスおばちゃんの力も大いに借りてのことだ。

そして!!!ついに!!!!!
アボリジニ村の長老を含む5人のアボリジニの女性たち、グラニスおばちゃんともう一人のアテンドの女性合計7名が3月11日、福島県いわき市小名浜で行われた追悼式への出席のための来日が見事に決まったのである。ちなみに最後のパスポート取得が確認できたのが日本への出発4日前。・・・・4日前ですよ!4日前!!!
一足先に、準備のために日本入りをしていた私は毎日「パスポートまだかーー。取れたかーーー。大丈夫かーー。」の電話を入れ続け、グラニスおばちゃんへ再三確認をしていた。しかしながらそこはオーストラリアの砂漠のど真ん中にある小さな小さなアボリジニ居住区。電話は3回に1回つながれば万々歳。とほほ・・・私は日に日に増える白髪をせっせと染めながらも頭の中ではすでに彼らの日本滞在をどんな風に演出しようか・・・そんなイメージをを密かに抱きながらひとりでにやけていた、ただのアブナイ人になっていた。

DengonNet7月号寄稿

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【東日本大震災追悼式 – 2】アボリジニ御一行様来日 後編
【東日本大震災追悼式 – 3】日本滞在はじめて物語 前編
【東日本大震災追悼式 -4】日本滞在はじめて物語 後編
【動画】アボリジニがやって来た~いわき市 東日本大震災3.11追悼集会のために~