先日、長い長い日本出張から帰ってきた。まぁ、「出張」といえば聞こえがいいかもしれないが今回は雑用も含めて実に忙しい毎日を過ごした。まずはアボリジニアート展を2箇所で開催、それを無事終えると今度は来年の展覧会の会場下見やら関係者との打ち合わせやらで日本国中をあっちへこっちへと駆け回りその間に田舎の両親に顔を見せ地元の同級生たちとも再会をする。

昔、小学校で一緒に机を並べていた彼女たちもみな早いうちに結婚をして苗字が変わり今はそろそろ子育てにも一段落したころだろうか。今度は自分の人生を再度見直して何かやりたいんだとそれぞれが口にしていた。

「その点、真弓ちゃんはひとり者だからいいわよねーー。気楽でしょう?好きなこと何でも自由に出来て。しかもオーストラリアで暮らしててさ。私も外国に住んで好きなことやってみたーーーーーい。」とオレ様がまるで毎日お気楽人生をエンジョイしているに違いなかろう・・といった口ぶりではないか。

そこでオレ様、ちょっと声を大きくして主張する。

「自由でいるということは大変なる責任なんだ!」と。

しかし、誰もそんなこと聞いちゃぁいない。皆、カロリー高そうなケーキパクパク食べて芸能情報のニュースで大盛り上がりだったからね。まあ、それはそれでよい。

人間それぞれ自分の人生は自分自身が「選択」して好きなシナリオ作成しているんだから。

そのオレ様が「選択」したのはまぎれもなくオーストラリア先住民、アボリジニたちの描く深遠でユニークな芸術“アボリジニアート”。今はこれらにどっぷりと漬かっているオレ様の人生。

今回はこのアートについて少し真面目にお話をさせていただこう。

ここでまずお断りしておきたいのはオレ様は決して民族学者でも美術評論家でも何でもないということだ。たまたまご縁を頂戴して砂漠で暮らす豪州先住民たちと長くお付き合いをすることになった一人の日本人であるというだけ。だからこそ皆様と同じ目線でアボリジニたちと接することが出来るのだ。そう、みんな同じ仲間なのだ。

オレ様が瞬く間に惹かれたのが彼らのアート。だってそれらは我々が日常認識をしている美術とはまさに対極的なものだったということを知ったからなのだ。

そもそも、オレ様がこれまで理解をしていた美術というのはまず目で見て美しいモノとして心を動かされるもの→だからそれらが不特定多数の人たちに公開される(美術館がまさにそうでしょ?)→そしてその美術はたくさんの人たちにその意味を説明されておまけに批評までされたりする→今度はそれがカタログとなって印刷をされ「モノ」として販売される→→→つまり出来るだけ多くの人たちに「観てもらう」ことに価値を置いた美術であったのだ。

それに対してアボリジニたちが描く絵というのは正反対。それらは部族間での通過儀礼を通じてその内容を正しく理解するための資格を持った人間だけが「観る」ことを許される「秘密の情報」だったのである。しかもそれが主に男性のみにだけ明かされていたというところが大変興味深い。そこらのオンナ・子供にゃー、簡単には見せらんねーーってことだったらしいではないか。オレ様、自称半分オトコであるからもしかしたら半分だけ観せてもらうことは可能だったかもしれない。

いやはや・・・万が一、その掟破りのオンナ子供がいたらそれこそ「死」を持って罰せられていたというからふざけている場合じゃないっぺ。

それほどアボリジニの絵の中には知るべき者にのみ公開される重要な秘密ごとだらけだったのだ。しかも実際に描かれていたのが大地の砂の上と自分たちの身体だったゆえ永久的に残すものでもなかったというところがこれまたおもしろいではないか。

そこへ1971年、砂漠で暮らすアボリジニたちに新たな画布が紹介された。それがキャンバス地とアクリルの絵の具だったのである。ここから現在におけるアボリジニアートの流通市場がスタートした。

しかしながらそれまで見せてはいけなかった絵を突然多くの人たちに公開することを余儀なくされた彼らに当然のことながら混乱と戸惑いが生じた。うっかり大事な暗号をキャンバス地に描いてしまったために長老から非難を受けて罰せられた男性もいたという。

アボリジニアート、一大事だ!

そこで幾多もの協議の結果、現在我々が目にすることの出来る作品にはアウトサイダーである人間にも公表が許されるギリギリのラインで描かれているという。

それでも1971年代当時はアボリジニアートをとても“美術”として「観る」人々などおらず、むしろ完全なる研究対象として人類学者たちのみを中心としたかなり限られた人たちにしか関心の対象にならなかった。

それが1980年代後半に海外で展覧会を開催したところこれが予想外の反響で数々のメディアに記事として大きく取り上げられたのだ。

「アボリジニアートは人類最古から継承されている素晴らしい現代アートである」と。

さぁ。そんな大きな注目を何と海外が先に向けちゃったもんだから本国オーストラリアは実にたまげたらしい。何しろこれまで自分たちがアボリジニの芸術を美術としての価値付けをするどころか未開の野蛮人たちが描く何だかよくわからないアートとして評価していたんだからね。展示する場所ももっぱら美術館ではなく博物館だったし。

それが今やオーストラリア政府はアボリジニの住む各居住区(コミュニティ)にそれぞれ公立のアートセンターを設置してそこへ数人のアートコーディネーターたちを雇用し海外のメジャーな美術館や画商などとの渉外を主にさせている。もちろんそれ以外にもコーディネーターたちの仕事は山ほどあり居住区で暮らすアボリジニたちがいつでも自由に作品を描ける環境をつくりその作品が本物であるという保証書を作成し、若手の画家の作品を地方都市で企画展をしながらプロモーションするなどまさに寝る暇もないほど日々忙しい生活を送っているのだ。

オレ様もアボリジニ村へ行くときには大抵このアートセンターに入り浸って画家たちの描く作品に見入っているのだがそこはいつ訪れても人だらけ。何しろ居住区ではアートセンターだけが唯一クーラーが効いているゆえ画家以外の子供や大人、おまけに犬までもがそこで一日中何をするわけでもない時間を費やす。たまに作品がまだ乾かないうちに犬がキャンバス地の上をテクテク歩き見事に足跡を残していくことも。あぁ。。。これがニューヨークやパリのメジャーな美術館に購入されるのかと思っただけでため息が出ちまうオレ様だった。

彼らがキャンバスに描く模様は決してでたらめに描かれているわけではない。それは遥か太古に自分たちの祖先が旅をしながら見つけていった水場のありかを示す地図であったり記録であったり。彼らは絵を描くことでその記憶を蘇らせ思い起こすのである。彼らが絵を描くことは決して作品をつくるのが目的ではなくそのプロセスが何よりも大事だということをご理解いただきたい。だから絵を描く際にあるアボリジニの画家は儀式の際に歌われる歌を歌うし踊りを披露してくれるときもある。見事としか言いようがない。

現在、オーストラリア全土で「アーティスト」として活躍しているアボリジニはおよそ1000人ぐらいいるといわれているがじゃあ、誰がアーティストで誰がそうじゃないのか?なんてことを考えるとまたわけわからなくなるのでやめておこう。我々、みんな歌が歌えるけどその中には音痴な人もいれば歌手になれる逸材もいるというように考えればいいのではないかな。なーーんてオレ様が勝手にそう理解しているだけだがいかがであろうか。

オレ様の人生にアボリジニアートが登場してきてもはや15年。その間には随分と様々な変化が見られたのを今更ながらに実感する。

未開の美術からいきなりメジャーデビューを果たした彼らの美術。でも描かれているストーリーは何一つ変わっちゃいない。変わったのは市場で販売される価格だけだ。

去る7月にはサザビーのオークションでアボリジニアートが過去最高落札価格を記録して大きな話題になった。

その落札価格は何と2億4千万円。作者は数年前に他界している。ちなみに余談であるがオレ様、この作者から生前にプロポーズを受けている。一度「今度二人っきりで狩に行こう」と耳元でささやかれたことがあった。もし、あのときあの申し出を受けていたら今頃オレ様は・・・・・

アボリジニアートの今後の行方に大きく注目をしたい。そして今度有名画家からプロポーズを受けたときには迷わずお受けしたいと思っている。