オレ様としたことがここ数ヶ月、原稿執筆を怠ってしまった。しかしながら断っておくが、決してズル休みをしたわけではない。これには、実にふかーいふかーい理由がある。

その一つに、いつも元気モリモリのオレ様にとっては、かなり珍しい体調不良があげられるのだが、今回ばかりは久し振りに寝込んでしまうほどの病気を患い、もしかしたらこのまま息を引き取ってしまうのかも…、なんて大きな不安にも駆られたものだ。でも、もし明日あの世に逝ってしまったとしても、もう 40年以上も生きているのだから「まぁ、お若いのに。惜しい人を亡くしたわよね」とは言われないことぐらいはわかっちょる。

それに一人暮らしであるこのオレ様の死体が、いつどこのどなた様に発見されるのかも疑問だ。真夏のメルボルン。外気温は軽く40度以上はあったっけな。きっと新聞かなんかには「邦人女性腐乱死体で発見。殺害か?」とか書かれちゃったりするんだろうに。もしかするとその時って、日本のサスペンスドラマのように、必ず「美女」って入れられたりするのかね。にひひひひ。

そんな根暗で、しょーもないことを、オレ様は自宅の布団の中でウンウンうなりながら考えていた2007年、年末であった。

しかし根っからの健康体であるオレ様だ。体力の回復に、時間はそれほどかからなかった。おまけに体力が徐々に回復すると、不思議なことに気持ちまで明るくなってくるもので、散歩しながら道端の草花に「こんにちは。皆さん。ごきげんよう」なんて声をかけたりしたくもなる。オレ様って案外孤独かも。

ところで新年早々、我が家のポストに一通の手紙が舞い込んだ。ちょっと分厚い封筒…。はて? 誰からだろう?差出人を見てみると、何やらキャンベラのナショナルミュージアムからではないか。そんなオエライところから、なんでこんなオレ様のところへ手紙が?

よくよく読んでみれば、そこには2月に大阪国立国際美術館で開催されるアボリジニの女性画家、エミリーの展覧会のオープニングセレモニーに、砂漠から女性画家を2名特別ゲストとして来日させたいゆえ、あんたが一緒に連れて来てちょうだいね、といった依頼文の内容であった。

そう。このエミリー展に関しては、オレ様、実に感慨深いものがあるということをここで少しお話しておきたい。

だって大袈裟でもなんでもなく、日本で、もしもこのエミリー展が実現したら、オレ様のゴールはすでに達成したも同然。さっさと仕事を引退して、かわいい花嫁さんになってやるんだと、15年前からタンスの奥にしまってある花柄模様のひらひらエプロンを取り出しては、一人夢見てにやける日々だったのだから。

その“エミリー”という女性を、すでにご存知の方々も多いとは思うが、オーストラリアを代表するアボリジニの画家。1996年9月に惜しくも他界をしたが、彼女の作品は、国内はもとより世界各地から高く評価を得ている、まさに「アボリジニが生んだ天才画家」なのである。

その彼女が生まれ育ったところは、紛れもない、西洋美術とは全く無関係なオーストラリアの砂漠のど真ん中。赤土に水1滴ない乾燥地帯だ。…にもかかわらず、彼女の作品は極めてモダンで美しく、それでいて自由で革新的。鑑賞した誰もがうっとり見とれてしまう、高貴な現代アートなのである。

しかもエミリーが初めて絵筆を握ったのが、70代の後半(もちろん推定年齢だが)というのだからなおさら驚きだ。他界する86歳までには、100を超える展覧会にも出展され、世界各地のメジャーな美術館にはそれぞれコレクションもされている。

そんな偉大な画家の120点にも及ぶ主要作品が、このたび日本で初めて本格的に紹介されるというのだから、オレ様、もうこの時点でおしっこちびっててもおかしくはなかろう。たまらなく大きな興奮だ。

エミリー・カーメ・ウングワレー。オレ様、実は彼女に一度だけ会ったことがある。忘れもしない1996年3月、彼女が他界する半年前のことだった。日本の NHK「日曜美術館」より、アボリジナルアートを日本で初めて番組にしたいので、協力をしてちょうだいねという依頼で、オレ様ふたつ返事で引き受けて、取材陣とともにエミリーの元へと向かったのであった。

最初にオレ様が、彼女と交わした言葉は「はろー」だった。あまりの興奮に他に言葉が出ない。すると彼女は、グローブのような大きな手で私の手をしっかりと握り、「しゅろいうでうんくしゅぐろすむをるは?」とアボリジニ語で容赦なく話しかけてきた。ツバがペッペッと顔にかかったが、そんなことは気にならない。

彼女の言葉がわからないオレ様がキョトンとしていると、すぐ隣にいた通訳者が「ダンナはいるのか? と聞いています」といきなりの先制攻撃。オレ様当時31歳。ピチピチの独身だった(でも今も独身)。「いいえ。いません。独り者です」と答えると、今度は「孫は何人いるのですか? とも聞いています」と、これまた通訳者。うっそー!ほんとにエミリーがそんなこと聞いてんのー! と怪しげな目で彼女をにらんでやったが、どうやら本当のことらしい。

これは後になってから学習して理解したことなのだが、何よりも誰よりも、家族の存在を大切にするアボリジニの社会にとって、こういった質問は全く当然のことであったという。

そんなエミリーとオレ様のやりとりを、すぐ傍で見ていたNHKテレビのディレクター。すかさず自己紹介をし始める。言っちゃなんだが、アボリジニは無文字社会。読んだり書いたりという文字を持たない民族だ。

ということは、当然エミリーも読み書きはしないのに、そのディレクター様ったら「あのー。はじめまして。ボク、ディレクターの○○と申します」と、いきなり自分の名刺を彼女に差し出したではないか。すると今度はすかさず、背後から「ぼくはカメラマンの△△です」と、これまた2枚目の名刺が目の前に飛び交う。自己紹介時の日本人の名刺交換、しきたりとは怖いもんだ。

ところが、生まれて初めてもらう名刺にエミリーは大喜び。これ、冗談のように聞こえるだろうが、彼女が笑顔で眺めていた彼等の名刺は、もちろん逆さまであったことをここにお伝えしておきたい。

さてさて。前述したナショナルギャラリーから届いた手紙には、来日させたい女性画家の名前が2名ほどすでに記されていた。グロリア・ペチャラとバーバラ・ウィア??? え? バ、バーバラ??だって!

神様ったら、新年早々どこまで意地悪なのであろうか。あんなにたくさんいるアボリジニの女性画家の中から、よりによってあのバーバラ姫をご指名されるとは。

彼女は過去2度に渡って、オレ様と一緒に日本へ行った経験がある。そして、そのたびごとにこの温厚なオレ様を幾度となく涙させた手ごわい相手だ。その彼女をエスコートして、また日本へ行けというのかい。

とほほほほ。41歳にして特大お年玉をもらった心境である。

しかし、天下のナショナルギャラリー様からの直々のお願いとあっちゃ、オレ様、断るわけにはいくまい。よし。行こう。バーバラ姫を連れて、再び日本へ行こうではないか。3度目の来日。3度目の正直。2度あることは3度ある。モノは言いようだ。

そんなこんなで、2月に開催される大阪でのエミリー展オープニングセレモニーに、我等は遠路はるばる招かれることになり、これからその来日準備をスタートさせる。

まずは大事なパスポート。以前、チラリと見たバーバラ姫のパスポートには、生年月日が確か00日00月1945年と記されていた記憶アリ。さすがバーバラ姫。誕生日がなくったって、オーストラリアのパスポートを手にできるすご者だ。

皆様、エミリー展をぜひお見逃しなくお願いしますよ。そうすれば芸術に、いや人類には「境界線」なんてないってことがきっとわかりますからね。