はじめて、その不思議なアボリジニの絵画を観たときの記憶。当時、日本語教師として渡豪していた私は帰国をちょうど3週間後に控えていた。それは今まで見たことがない絵で、見たことがない画面の構成で、見たことのない色使いだった。もちろん絵の意味なんてさっぱりわからなかった。9年前の出来事である。

その不思議な絵の力に引き寄せられるかのように私はアボリジナルギャラリーで日本人スタッフとして仕事を始めることになった。そして7年後のいま、一大決心をしての独立、メルボルン市内に小さなアボリジニ絵画専門の事務所を構えることに。

よく晴れた午後の昼下がり、私はボーっと睡魔と闘いながらも溜まりにたまった書類の整理をしていると事務所の半開きになっているドアの隙間からチラチラと中をのぞく人が何人もいる。「ここ、何?こんなとこあったっけ?」何やらそんな話し声も聞こえてくるではないか。

「・・・アボリジニ部屋らしいよ。でも、ここいつも閉まってるよねえ。」・・別に盗み聞きをしているわけではないがやはり聞こえてしまう。彼らは中に入って来たいのか?それともただの冷やかしか?この際私にとってはどっちでも大歓迎なので「ほらっ!入って来なさいってば。」そう思いながら思いっきり微笑んでみる。たいていの人はそこで一緒にひきつり笑いを残してそのまま慌ててエレベーターに乗り込んで立ち去ってしまう。

「かえって、怖いんだってば。そういう笑い。」・・・と、その話を聴いた私の友人。「じゃあ、どうすればいいっていうの。」と鼻の穴を大きく膨らませて尋ねる私。
「いや、もともと入りにくいんだよ、画廊って。勇気いるんだよ。僕だってはじめは緊張したもの。」
「作品を買わされるんじゃないかと思うわけ。そうなの?」
「うん、それもあるね。」
「でも、どんなお店だって入ったら必ず買うなんてことはありえないでしょう?まずはいろいろ見てみるでしょう?画廊だって同じなのに。それに私のところは画廊とかギャラリーとかそういった場所として空間を提供しているわけじゃないのよ。もっとこう・・何ていうかアボリジニアート学習部屋みたいな・・・」
「ああ、それならいいんだけど。でもね、やっぱ異質な空間だからさ。みんな、一度入ったら簡単に出て来れない気がするんじゃないかな。」
「・・・そんなあ。別に取って食いやぁしませんよ。60回のローンも組ませませんってば。そんな得体の知れない怪しげな画廊と一緒にされては困るってものよ。」そう言いながらも、やはりもう少し私は『入りやすい空間』の提供を試みないといけないのかもしれない。

以前、まだギャラリー勤務をしていたころあるコレクターと思われる紳士が入って来られるなりいきなり作品を指差して『これは何をあらわしているの?』と尋ねてきた。それは縦の線がたくさん入った抽象画でアボリジニの男性のボディペイントをモチーフにしたものであった。彼はそのときの私の少し困惑していつもよりも深く刻まれた眉間のシワを見て”お前に何がわかるものか”とでも言わんばかりに私の答えを待たず「あ、これ滝ね、滝。そうでしょう?」と自信満々に言い放つ。私は声を失って、それでもきっと口元だけはただパクパクと動かしていたのであろうか「・・・砂漠で暮ら すアボリジニは滝なんて生涯見たことがありません。ですからこれは滝ではないですし、流しそうめんでもないですし、沸騰したお湯からこぼれ落ちるスパゲッティでもありません。かといって夏の海水浴のあとの女性の乱れ髪でもなければネコに引っかかれた傷でもありません。ここまで私に言わせますか。え、そこのあなた。」って本当はそう言いたかったのではあるが。

結局、その紳士は首をひねったまま静かにギャラリーを去って行かれた。ああ、これでまた客をひとり失ったか・・・とまだ勤務して間もなかったころの自分を戒めたこともまだ記憶に浅い。

アボリジナルアートは、まさに”現代アート”である。そして、この現代アートほどぱっと見て、よくわからない作品はない。見る側はたちまち不安を感じて『私は頭が悪いので理解ができません。』と自分をいきなり卑下するタイプと『どうせあんたは理解できない私を馬鹿だと思っているんでしょうに。』と逆切れして攻撃するタイプとがある。それは貴重な画廊勤務経験8年目の私の観察記録から学んだものである。初めは戸惑って当然。しかし、実はそこからアートをめぐる冒険が始まるのも事実である。

たった一人で仕事をしていると、作品の買い付けから額装・販売・梱包・発送手続きをすべて自分でまかなう。それは当たり前。それゆえ、さらに自分が長期外出するときには事務所はおのずとクローズする。オーストラリア中央砂漠でのアボリジニ居住区滞在時はもちろんのこと、トイレに立つとき、お昼ご飯を買いに行くときも短時間ながらもクローズしなければならないのである。いささか不便である。ただ、オープンをしているときにはもういつでもどなたでも大歓迎なのでぜひともお気軽にのぞいていただきたいものだ。

現在の事務所にある数々のアボリジニ作品は私が直接アボリジニ居住区へはるばると赴き、そこでアーティストたちから直接購入してきたいわば思い入れの大きいものばかりである。作品への想いが強すぎると、時にそれを手放したくなくなるという困った事態も発生したりする。いわば作品が売れるときには『嫁に出す』といった親の心境になったりしてしまうのだ。手塩にかけた娘を嫁にやるといった気持ち。そんな娘の嫁入りを喜ばない親はいない。私は時折、知人のコレクターが作品の前でじっとたたずんでいる姿を見ては耳元でよくささやいたものである。

『おねがい、お嫁にもらって。』

このセリフを過去にも現在にもまだ現実の場面で使えていない私は、今後もとうぶんひとり暮らしを謳歌するのであろう。