オーストラリア先住民、アボリジニがそれはそれは豊かな芸術性を持つことは、今や世界中の人々に認知されてきているが、彼らが描くそのアボリジニアートについて今回は少し話をしてみたい。オレ様もたまには真面目に何かを熱く語りたくなることだってあるのである。それに何たってこのアボリジニアートの(インチキ)専門家としてオレ様は食べてってるんだからねーー。

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アボリジニアートと一概にいっても、これだけ気が遠くなるほどだだっ広いオーストラリアのあっちこっちに、しかも数百もの異なった言語集団で生活をしているアボリジニたちが、まさかみんな同じ内容の絵を描くとは思えない。絵はアボリジニにとって大事な生活の一部なのであるから。日本だって北海道で暮らす人々と沖縄の人々とでは食文化も習慣も民謡も祭典ごとも愛の告白《←ホントか?》もみな異なるでしょう。それと全く同じ。

海岸のそばに住んでいるアボリジニ達は海の生き物をモチーフにした神話を多く描くし、その反対に水を求めて遊動生活をしてきた大陸の中央砂漠に暮らすアボリジニたちは、乏しい食料をいかにして獲得するかという情報を暗号化して砂の上に描いてきた。双方に共通していることは数万年に渡ってこの大陸に暮らしていた狩猟採集者であるということ、そして「読む」「書く」といった文字を持たず物質文化は極度に乏しい「未開の人たち」と、実際にはあとから入植をしてきた白人たちにそうみなされていたこと。それは悲しいことに1950年代まで続いたのである。

私は暗号化された砂漠の芸術に心惹かれ、その暗号の奥に秘められているという物語を無性に探りたくなった。しかしその物語は外部者には一切明かされることはなく、おまけに女性と成人儀礼前の男性にも決して語られることはないという。アボリジニアートが外部者には明かされない物語を秘めているというなら、自分が彼らにとって外部者でなくなればいい……。そう思ったオレ様は、これまでおよそ10年間にも渡ってせっせ、せっせとアボリジニ村へ通いつめてきた。(できればそこに「嫁にも行かず」と付け加えていただけると有難い)。

決して誇張するわけではないが、アボリジニ達に身内として認知されるようになるまでには計り知れない時間と婚期……おっと。もとい。根気と情熱とお金と体力と寛大な心と愛情が必要であると確信する。

身内となるために時には真っ暗闇のシーンと静まる大地で一晩中乳を出して踊り明かすこともあれば、あまりの空腹で目が半分白目状態になっても水一滴飲むことなくひたすらイモムシ狩りに格闘したりと、実に多種多様なハードルをいくつも飛び越えねばならないのだ。そんなハードルを一つ、二つ、と汗ふきふき越えるたびに、少しずつ「身内のように気の置けない怪しいジャパニーズ」として彼らの眼差しが次第に変わって来るのを感じるのである。

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またオレ様は、これまでもしかしたら自分は半分ぐらいは男じゃなかろうかと思えるほど男らしくたくましく生きてきたつもりだ。だからお前はオンナじゃないからとアボリジニ達から秘密の情報をもらえる可能性は十分ある。そういえば以前ある占い師に占ってもらったときも「アンタはまるで男のように生きている。自分が男だから男を必要としてないのさ。今後もずっと独りでしょう。それにそろそろヒゲぐらい生えて来るかも」なんてことまで言われたっけ。クソババア。金返せ!

せっせと通い詰めるアボリジニ村でいつも私を特にかわいがってくれる一人の女性がいる。名前はウィンチャ。可愛い名前とはうらはらに顔は一見おっかないが《実は私の祖母に顔がそっくり!》、彼女のハートはゴールドのようにピカピカだ。英語をあまり理解しないので、会話はお互いハチャメチャなのだが心はちゃんとつながっていると感じられる存在感たっぷりの偉大な女性、そして著名な画家でもある。ウィンチャは私が側に寄ると決まって髪を撫でてくれる。スキンシップが好きな女性だ。またどうやら肩より長い私の髪に興味があるらしく(そういえばアボリジニ村では長髪の女性は見かけないなあ…)。私がいつも使っているシャンプーをぜひ自分も使いたいので帰るときには絶対置いていけ、と命令してくる。私と同じシャンプーを使えば自分の髪も途端にみるみる長くなるに違いない、と彼女はそう信じて疑わないのだ。

また、砂漠では私の運転でウィンチャをよく狩りに連れて行くことがあるのだが、行き先を確認すると「天まで行ってくれ」との指示。「えっ?」と聞き返すと、彼女はひゃっひゃっと笑いながら「じゃあ、シドニーまで」と眼は真剣そのもの。ちょ、ちょっと。いくらなんでもここは砂漠のど真ん中。シドニーまでは軽く3日はかかるでしょうに。と、こちらも慌てふためく。でもアデレードぐらいまでだったら1日半で着くから、そこがシドニーだってウソついちゃおうかな……とっさにそんなことまで思い付く。ウィンチャに身内だと認めてもらうためにはウソだって必要なのだ。

結局、シドニーへもアデレードへも行くことなく、ウィンチャは突然車から降りて地面の上に指で絵を描き始める。身体の奥からうねり出るような低い声で彼女はまるで仏教の経典でも読むかのようにリズムを取りながら、何世代にも渡って伝承をされてきた創世のストリーを私に聞かせる。そんな彼女の隣に一緒に腰を下ろして広大な大地に響き渡る不思議な歌声に耳を傾けていると、自分の身体がそのまま大地に吸い込まれそうな、そんな感覚を覚えた。

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細かいドット《点描》と奇妙な暗号だけで描かれているアボリジニアートも、実はそこには民族に伝わる太古の神話や砂漠において生きるために必要な情報や地図、貴重な生物や水のありかだったりするのである。自然がもたらす様々なサインをいったいどう読むか、そしてそこで何が起きているのかなど、すべての情報は大地の精霊のスピリットにつながるとウィンチャはきっと私に教えてくれているんだろうと思える。言葉が通じないので、これは私の勝手な解釈かもしれないが、そう確信できる不思議な自信が私にはある。

つい最近まで「未開の人たち」とさげすまれ、西洋美術という概念を一つも持たない裸足のアーティストたちによって描かれるアボリジニアートを私は立派な現代美術として今後も熱く語っていきたい。