第100回
皆様、新年明けましておめでとうございます
…と、オレ様ここぞとばかり、ついでにもひとつ「おめでとう」を言わせていただきたいことがある(胸を張って。そして鼻の穴も大きく広げて)
なんと、なんと、この新年号で、オレ様の「裸足のアーティストに魅せられて」の連載がめでたく100回!!を迎えるのであるううううううう。
まあね。それが一体どうした…と言われりゃそれまでであるが、やはりこれまで100回もコツコツと真面目に原稿書いてきたという、オレ様のつつましい努力を、この場をお借りして、ぜひ自分で称えたいと思ってる。
そこで、時計の針がまだ午後3時を差していない真っ昼間から、冷蔵庫の中の冷たい白ワインを開けて、ひとり祝杯をあげている。金がないので、シャンペンなんて高級モノは我が家の冷蔵庫には存在しない。そして、もちろん手酌だ。手酌する人間は出世しないと、周りの人間から以前、さんざん忠告されたことがあったが、自宅で寂しく、ひとりぼっちで起業しているオレ様は、誰が何と言おうと立派な社長なのだから、これ以上出世なんてする必要はひとつもない。だから、毎日手酌で酒をがぶがぶ呑んでいるのである。
ところで…100回というと、おおよそ過去何年間ぐらい書き続けてきたのだろうかと、オレ様の複雑な頭で単純計算をしてみた。すると100回÷12ヶ月=8.3年という数字がひとまず出るが …根っからの怠惰なオレ様のことである。8.3年間も、毎月毎月、欠かさず原稿を提出していたわけがない。いつも締め切りギリギリのその日に、慌ててパソコンの前に正座して、一生懸命ネタを考えているぐらいだから、時折「ごめんなさい! カンニンしてください。今月はどうか休ませてください。いててて…あれ。変だな。急に吐き気をもよおしてきた。ひょっとしてつわりかな」と想像妊娠のふりして、編集長様に頭を下げたことだって1度や2度ではないのだから。
そうなると間違いなく過去通算10年以上は、この「伝言ネット」様とのお付き合いがある計算になるわけだ。これまで実に何人もの人から、 「ドラゴンネットいつも読んでますよ」とか、 「はだかのアーティストに魅せられて、おもしろいですよね」とか、言われ続けてきたオレ様であるが、この際、「竜ネット」でも「素っ裸を見られても」でもなんでいいと思っている。何よりも、この1ヶ月に1度のオレ様コラムを、長いこと楽しみに読み続けてくださっているという方々からの心強い声援が、たまらなく大きな力になっているのだから。どこか見えないところで、オレ様が確実にたくさんの方々と繋がっていると思えることに、ともいえない興奮を覚えるのだから。
そこで今回、100回目の記念すべき原稿を書くに当たって、それじゃあ第1回目は、一体何を書いていたのだろう…? と、ふと思い、てっきり、それを自分のパソコンに保存しているものと信じ切っていたオレ様は、どこをいくら探しても、その第1回目の原稿が見当たらないことに、さぁ大慌て。きっとまた酔っ払って、うっかり削除してしまったのだろうか。(先日、いくら探しても見つからなかった展覧会の招待状が、数日後、冷蔵庫の野菜室から出てきた事実あり)それとも10年前となると…当時は、オレ様がまだうまくパソコン使えなくて、もしかしたら手書きでファックスで原稿送ってたか??? なんてことも十分に考えられる。恐ろしい。10年前の記憶が、おもしろいように飛んじまっている。
しかし、今でも鮮明に覚えていることがある。当時、そうそれは10年前のことだ。メルボルンの市内のアボリジニアートギャラリーに、日本人スタッフとして勤務をしていたある日、ちょっと小柄の1人の日本人男性がギャラリーのドアを開けて、ぬぬぬぅぅぅーっと入って来て、オレ様にこう話しかけたのだ。 「あのぉーー。僕、メルボルンで『伝言ネット』という月刊誌を発行している者なんですけどぉーー。もしよければ、アボリジニのことについて、ちょっと原稿を書いてもらえませんかねえ」と、いきなりこうだ。
「んんんまぁーー! お声をかけていただいて、どうもありがとうございます。でもなぜ私が?」とオレ様、心の中では「このあんにぃ、一体ナニモノだ?」と怪しく思いながらも、いつものインチキ営業スマイルで少し様子を探る。すると、大きな黒いちょっとボロボロになっていたカバンから、そのアンニィが取り出してオレ様に見せてくれたものは、ピンク色したペラッペラの4枚つづりの、これまで見たことがない冊子だった。表紙には変わった字体で「DENGON NET」と書かれていた。
「…はぁ?」
オレ様は、その時点でも、いまひとつ状況がつかめず、ちょっと不思議そうな顔をしてみた。もちろん、インチキ営業スマイルは忘れずに。その後、どんないきさつが我々の間に交わされたのか、正直よく覚えちゃいないのだが、結局オレ様は当時、誌面を通して、オーストラリアの先住民が持つ深遠なる文化とその歴史、そして彼等の稀に見るユニークなアートをメルボルン在住の日本人の皆様に、1人でも多くご紹介をしていきたいという、たったそれだけの願いから、この伝言ネットの連載を始めることにしたことは間違いない。
たかが10年。されど10年。この10年間で、実に様々な変化が訪れた。いまやインターネットというテクノロジーのおかげで、オレ様のこのコラムが、世界中の人々に読んでいただける環境となったのだ。そう。だから今度は、メルボルンだけではなく、世界中の見知らぬ方々から、たくさんのメールをいただく機会に恵まれたのである。
そして、昨年は、この記事を読んだという日本の出版社から、「本を出してみる気はありませんか?」との申し出を受け、あれよあれよという間に、今度は本を出版するまでに至った。「夢の印税生活。老後はこれで悠々自適さ」の夢もはかなく、どうやらこの本、原稿執筆にあれだけ苦労したにもかかわらず、ちっとも売れていないようだ。今頃は、きっと出版社の倉庫にホコリまみれのまま、山積みされてスヤスヤ眠っていることだろう。そのうち焼却処分になっちまうことだろう。そうならないうちに、さっさと自分で買い取った方がいいのかなあ。ため息ついて貯金の残高を確認するオレ様、これだけは10年前とちっとも変わっちゃいないようだ。
そもそもオレ様が16年前にオーストラリアへ来なければ… アボリジニアートに出会っていなければ…そうなると当たり前だが、全く違う人生を送っていたはずだ。
初めてこの広大なオーストラリア大陸に足を踏み入れた 1994年。オレ様は、ボランティアの日本語教師として、当時、人口わずかの小さな小さな村に派遣をされた、たった1人の日本人だった。到着するやいなや、たどたどしい英語の単語を一生懸命並べて、ホストファミリーへ一生懸命に自己紹介をした。すると、「よし、今日は日本からのゲストが来たから、久し振りに夕飯は外食しよう!」とホストパパが気を遣ってくれたのか、そんなことを言ってくれた。年に何度も外食をしない子供達は、もう喜びのあまり、気が狂ったといわんばかりに家中を駆け回っていたのを、今でもはっきりと覚えている。そして、その晩、連れて行ってもらったのが、隣町のマクドナルドだった。
さすが世界のマクドナルドだ。こんな田舎町にもちゃんとあった…なんて、そんな感動するわけない。何たって、オーストラリアに来て、オレ様が一番最初に口にする夕食なんだぞ。「食べきれないほどのジャンボステーキ」とか、「ガイド本に載っていたフィッシュアンドチップス」とか、一応それなりに想像したいではないか。
「何でも好きなものをお食べ」と、今にも入れ歯がはずれそうなしゃべり方をするホストパパ。本当は腹ペコだったので、ビックマックを2つほど注文したかったが、当時まだ遠慮という奥ゆかしさというか、恥じらいを持っていたオレ様は、小声で「じゃあ、フィレオ・フィッシュお願いしまちゅ」と、もじもじしながらそう答えた。
「ほほおーー・オーストラリアに来て、すぐにフィッシュが食べたくなるのか。やはり日本人だなあ。おや? すでにホームシックかい?」と笑った拍子に、今度は本当に入れ歯がはずれそうになったホストパパのあの顔は、オレ様、今でも決して忘れてはいない。
それにしてもオレ様、どうして記念すべきこの100回目に、こんな昔のことを書いているのだろうか。どうやら手酌の白ワインが随分効いてきたようだ。
結局何が言いたいかというと、まったくひょんなことから南半球メルボルンに来ることになったことから、自分の人生が180 度ひっくり返り、そこから自分の人生のシナリオを一生懸命書きなぐってきたということだ。シナリオでの主役は、オレ様。しつこいようだが、社長も兼任している。今後も、ますます手酌の機会が増えそうだ。