日頃、他人様とケンカなどほとんどしたことがないこの超温厚なオレ様だが、過去に一度だけ、それこそ生涯忘れられない大ゲンカをしたことがあった。今でも思い出すと背中がビクッとするんだから相当なもんだな。

その相手はアボリジニの女性画家、バーバラ・ウィア。2002年のオレ様の伝言ネットの記事をすでにご一読いただいたみなさまは、それがどれだけ派手なものだったかおわかりであろう。

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ケンカが実行されたのは彼女の2度目の来日のとき。しかも場所は白亜のリゾート地である小豆島であった。本来であれば、美しい真っ白い砂浜とビーチで楽しい思い出いっぱいのはずの“日本滞在物語”が、そのケンカを機に一気に“ドロ沼どん底・涙ぐじゃぐじゃ物語”になったことはいうまでもない。

まあ、もともと体調が万全でなかったバーバラに無理をいって日本へ来てもらったゆえ、オレ様これでもかというほど気を遣い、ときには腐ったスルメイカのようなすっぱいにおいのする足を揉んであげたりしながら、何とか途中で彼女が「帰る」なんて言い出さないよう、始終ご機嫌とりに努めたもんだった。しかしながら、その苦労もむなしく彼女は爆発。負けずにオレ様も大噴火。理由はほんの些細なことからだった。

まさか取っ組み合いのケンカにはならなかったものの、ホテルの朝食時に周りのお客様達の目も眼中になく、我々は大声で怒鳴り合い、「こんなところにはもういらんねーー。オーストラリアに帰る! さっさと送っていけ!!」とバーバラが英語とアマチャラ語の混ざった言葉を吐きながら立ち上がれば、「帰れるもんなら一人で帰ってみろー。誰がおめーなんかを送っていくものかーーー!!!」とオレ様も食べていた鮭の皮を口にしたまま牙を向き出す。
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結局怒り狂った彼女は、当初の滞在予定より1週間も早くオーストラリアへ帰ってしまったという苦い思い出のまま、それ以来日本の話を口にすることはない。あ、でもちゃんとオレ様ね、送って行きましたよ。小豆島から成田空港までね。お互い無言でしたけど。

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それから月日が経つこと早5年。もちろんその間何度もバーバラとは顔を合わす機会はあり、言葉もいくつも交わしているが、やはりお互い腹の底ではあの“涙ぐじゃぐじゃ物語”が尾を引いている。それは何ともいえない我々を取り巻く空気でうすうす感じるものだ。

そんな彼女と、実は先週ずっと一緒にアリススプリングスで過ごすことになった。理由はあれこれあるのだが、私の仕事上どうしてもこのたびバーバラに、アボリジニ村への案内役をお願いしなければならなかったことが一番にあげられる。以前のしこりを何も感じていないかのように、彼女はそのお願いを快諾してくれた。

ところで、アボリジニ画家の巨匠に「エマリー」という女性がいるのをご存知であろうか。

エマリーはアリススプリングスから250km北東にあるユトーピアというアマチャラ語を話すアボリジニ居住区で生前暮らしていた。そう、彼女は1996年9月2日に悲しくも他界されたのである。当時86歳(もちろん推定年齢)であった。亡くなった翌日の朝刊トップページ一面に彼女の死が知らされ、豪州国民みんなが偉大なアボリジニ画家を失ったことを悲しんだ。

彼女の死からもうすぐ11年。回顧展としてすでに「エマリー展」は豪州国内では盛大に開催されているが、海外ではまだ行われたことがない。そこで一番に手を上げたのがわが国ニッポンであった。

そう、来年2008年に何と大阪の国立国際美術館と東京の国立新美術館で「エマリー展」が開催されることが見事決定したのである。アボリジニの女性画家の個展を日本の国立美術館が手がける意義は非常に大きい。ああ、もうだめ。考えただけでもオレ様血圧上がりそう。あまりにもうれしすぎて。

そこで、展覧会関係者ご一行様がこのたびエマリーの故郷であるユトーピア居住区を事前に訪問するというので、そのエスコート役としてオレ様にお声がかかったというわけだ。なんとも名誉なことではないか。

しかしながら同じアボリジニ居住区でもユトーピアは、普段オレ様があまり足を踏み入れない居住区だ。ということは居住区へ入るための許可証もなかなか入手しにくくなる。そうなると、5年前に涙ぐじゃぐじゃ物語で小豆島ベストフレンド大賞を獲得した我が友バーバラ様に、訪問に際してのおうかがいを立てなければならなくなったというわけだ。

おまけにエマリーはバーバラの育ての親でもあるからしてバーバラ自身、エマリーとは一番近しい存在であった。個人的な秘話もきっとたくさんあるに違いない。案内役はもうバーバラしかいない。バーバラ。バーバラ。おお。バーバラよ。小豆島の件は許しておくれ。オレ様が悪かった。もしかするとあのときオレ様は、少し早い更年期だったのかもしれない。睡眠不足でもあった。もう一度仲良くしておくれよ~~~。 

そんな思いを込めながら今回の案内役をお願いしたところ、バーバラ開口一番に「また、日本へ連れて行ってくれるか?」と。即答するまでに3秒ほどの時間を要したオレ様。そして声を1オクターブ裏返しながら答える。「も、も、もちろんだよ。エマリー展のオープニングセレモニーには間違いなく招待されるから。また一緒に日本へ行こうよ。レッツゴー!」。

ああ……。オレ様、自分の調子の良さに今さらながらため息が出る。…が案内役を引き受けてもらうためにはいたしかたない。

そんなこんなで、このたびバーバラの案内のもと、日本からのご一行様は無事エマリーの故郷を訪れることができたのであった。ご多忙スケジュールのご一行様は、アリススプリングスからチャーター機でユトーピアへ。所要時間はたったの45分。上空から砂漠の大地を見渡す感動を大いに味わったことだろう。

ところが、オレ様とベストフレンドのバーバラ様は車でユトーピアへ。所要時間は3時間。現地でみんなが移動するための車が必要だったからである。とほほ。何でこうなるのかねえ。しかしながら、道中ありあまる時間の中で、バーバラはこれまであまり人には話したことがないという自分の生い立ちを、ポツリ、ポツリとオレ様に話し始めた。オレ様、何も言わず静かに聞き入った。

アイルランド人の父親を持つバーバラは混血児としてユトーピアで育つが、当時のオーストラリア政府の政策により7歳にして母親から無理やり引き離され、それ以降ずっと白人家庭をたらい回しにされて育てられたそうだ。見知らぬ土地で、見知らぬ人達と、聞きなれないおかしな言語の中で(当時バーバラは英語を話せなかった)、飲んだことのない牛乳を学校で飲まされ、一気にゲロを吐いてしまったという。

母親に会いたい一心で毎日毎日泣き明かしていた幼い彼女も、やがて成長期を過ぎ英語も理解し始め、白人社会でうまく適応する力を備えるようになる。引き離されてからすでに20年の歳月が経っていた。母親はとうの昔に亡くなってしまったと聞かされていた。

その彼女が何と、20年後に実の母親と劇的な再会を果たすのである。あーー。オレ様、これ書いているだけでもう鳥肌もの。幼少の面影を抱いたバーバラを覚えていた人間が「母親は生きている。お前の帰りをずっと待っている」と彼女に伝えたという。自分がユトーピア出身であることすら記憶にない当時のバーバラ。しかし、実の母親が自分を待っているとわかると、もういたたまれなくなってすぐに会いに行く計画を立てたそうだ。

20年ぶりの親子の対面。しかし、お互い言語が通じない。アマチャラ語をすっかり忘れたバーバラ。英語を理解しない母親。あまりの戸惑いに抱擁すらできなかったというではないか。

そのとき、バーバラの右腕を背後からすくっと持ち上げ、ぎゅうっと抱きしめてくれたのが、エマリーだった。「よく帰ってきた。ずっと心配していた。みんな待っていた」と。たとえエマリーの言語が通じなくとも、その腕の中のぬくもりと背中に当てられた大きな手が、すべてを語ったのではないだろうか。

それ以来、バーバラは何と再びユトーピアで暮らす決意をし、アマチャラ語を一から学び直したのである。20年以上も白人社会で暮らしていた人間が、そうそう簡単にできることではないことは、誰もが承知だ。だからこそ、バーバラのたゆまぬ努力を称えたい。さすがオレ様のベストフレンドだ。

アボリジニ社会に再び戻ったバーバラは、誰にも負けない狩りの名人となったという。そんな話を聞いていたとき運転していたバーバラが急ブレーキをかけて車を止める。「どうしたの? 急に止まったら危ないじゃないの!」と文句を言うと「しっ! 静かに。今、大きなトカゲがいたんだ。捕まえてくるからここで待ってて。」とバーバラ。

砂漠のど真ん中の一本道を、時速120km全開で突っ走っていながら、道端のトカゲを見逃さない彼女の視力は、間違いなく5.0はあるはずだ。車を止めて10分後。名ハンターは、見事にまるまると太ったトカゲを、あっという間に仕留めて戻ってきた。

「実は、今夜の夕飯はトカゲが食べたいと思っていたんだ。そしたら見つけた。ラッキーだ」と、本当にうれしそうに言いながら後部座席に積んでいたクーラーボックスの中に、口から血を流しているトカゲを放り込んだ。ちなみに、クーラーボックスには、チャーター便でやってくるご一行様用のランチが入っている。これを開けたときのみなの驚くお顔がああ、早く見たい。

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我が友、バーバラよ。アボリジニ社会と白人社会を、立派に橋渡ししているあなたの絶大なる努力にオレ様、心から敬意を払います。これからもどうか元気で、名ハンターとしてご活躍くださいませ。